バウル剣道同好会 マヌエルの巻

バウル剣道同好会

マヌエルの巻

僕が住んでいたアパートの住民の大半は近所のサグラド・コラソン大学の学生で、間取りも日本流に云うと1LDK。独り暮らしには丁度良い大きさだった。

アパートには三人の門番が二十四時間交代で働いていた。皆六十歳過ぎ。その内の一人は八十歳に近い。
門を開けてもらう度に「お早う」とか「今晩は」とか挨拶の後、彼らは僕の名前を呼ぶ。
「お早う、太郎」みたいな感じだ。(僕の名前は太郎ではない)
僕は彼たちの名前を知らないから笑顔を作って親密さを「創造」しなければならない。

門の横に小さな部屋があり、そこに置かれた白黒テレビからは一日中サッカーの試合かドラマが流れている。しかし彼たちはそこにはいない。大概は裏の給湯室か隣の応接室で休んでいる。
呼び鈴を鳴らすと奥の方からくぐもった返事が聞こえしばらくすると姿を見せる。
しかし八十歳の男は耳が遠いのか、呼び鈴を鳴らしても一向に現れないし、現れるときでも決して急がない。
朝はゆっくりとした足取りでパンをかじりながら出てくる。
「コーヒーが裏にあるよ。どう、太郎?」などと聞かれたりする。
「どうもありがとう。でも今はお腹が一杯で」と答えて門をくぐる。
彼の胸から腹にかけてパンの粉がくっついている。
そのパンにバターが塗られているのかは知らないが、それが彼の朝食であることは分かる。
一度自分の部屋の鍵が壊れたことがある。
鍵屋を待っている間甘いコーヒーを勧められた。
白髪でどこか教育者風のその姿には威厳があり、若い頃から門番をしているようには見えない。
好奇心から出身地を尋ねたら隣町のペデルネイラスとの返事。
しかし家族のことや昔のことは聞かなかった。
つらい過去があったりしたら聞くのも嫌だし思い出させるのも僕の本望じゃない。

寒い日が続いた六月のある日、見知らぬ若い門番がいた。
休暇や何かで短期間代わりの人間が来ることがあるので気にしていなかったのだが、数日後その若い門番が他の二人とローテーションを組んでいることに気が付いた。
若い男に「あのセニョールはどうしたのか?」と聞いた。
「ああ、マヌエルね。彼は腎臓で入院しているが医者によると絶望的だそうだ。可哀想に」と言う。

僕は初めて名前を知った。
「マヌエルは先週まで門番としてここで働いていたが、今は病院に横たわり、秘めた過去を持ったまま何処か遠くへ行こうとしている」
僕は心の中でマヌエルの永遠の平安を祈った。

三ヵ月後、いつものようにパンを買いに出ようとアパートの階段を降りたら、そこに死んだはずのマヌエルがいた。
相変わらず口の回りにパン屑を付け「お早う、太郎」と言う。
「生き返ったのか?」と思わず口から出そうになった。

「良くなったのか?」
「二ヵ月入院していたが、漸く良くなった」

あの日、僕は存在の寂しさと悲しさに触れたような気がしたのだ。
目の前のマヌエルはそんなこと何も知らない。
それでもパン屋への道すがら「哀悼の気持ちは無駄になったけど何だか嬉しいし、縁起がいい一日になりそうだ」と感じていたのだ。

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