2015年5月31日

アルマンド・ネーヴェス

Armando Neves
(1902-1974)

Arando Neves

アルマンド・ネーヴェス

 

「僕? カンピナスのジェネラル・オゾーリオ通り生まれ。母さんはイタリア系で眼が青く澄んだ美人。父親は人が良い髭の濃い大柄な黒人。彼がいつも僕に言っていたのは、僕は特別な存在ではないってこと。実際にそうだね、この通りだ」
「サッカーボール? いつも近くにあった。これも特別なことでは無い。黒人にとっては尚更ね」
「ギター? 20才の時、手に入れた。小奇麗な台に足をかけて楽譜とにらめっこしている若い奴にあった時、君たちみたいにギターが上手くなりたいと言ったら、お前は大耳だ。でも大耳だけではどうしようもないねって」
「どうしたかって? 頭にきて道の小石を蹴っ飛ばして、あいつら今に見てろって思ったよ」

アルマンド・ネーヴェスはサッカーとギターの二本立ての人生を送りました。
二つの才能があったと言えば聞こえは良いのですが、貧しい家庭に生まれたアルマンドはその才能をお金に変えねばなりませんでした。
サッカーチームの練習生に選ばれても生活は苦しく、宛ても無いままサンパウロに出て、サッカーを続けながらペンキ塗り、砂利運び、目の前に現れたものは何でもこなしていました。
自嘲か「何でも屋のプロ」だったと言っています。

1919年カニョットのコンサートを見る機会がありカンピナスに忘れてきた自分への約束を思い出しました。
「僕にはギターが要る」
早速ギターを手に入れ、先生を訪れますが「作曲するためにはメロディ、和音、楽譜、つまり理論への理解が必要だ。君にそれができるとは思えない」
冒頭の道の石を蹴っ飛ばす話に戻ります。

この後アルマンドはギターを腕に抱え足元にサッカーボールを転がせながらサンパウロ市内のグリセリオ、ブラス、イピランガ、カンブシ辺りをうろついている内に二人の友人と出合い、バンドを組むことになり、パラグアスらの曲でブラスの劇場でデビューを飾ります。1923年7月10日のことです。

1927年サッカーチームのコリンチャンスへの入団がかないました。
言ってみれば日本の巨人軍。フットボールプレイヤーとしてこれ以上は望めません。ゴールも決めました。

音楽への道も前進します。
同年、カニョットのコンジュント「ノイチス・ラジレイラス」に参加し、ラウル・トレスの「バツータス・パウリスタス」に加わっています。
ラウルとは「ショローンエス・セルタネージョス」を結成し、今度は自分の曲で、1930年まで続けました。
この間、パウリスタ教育ラジオの専属バンド担当になったり、ジョアン・ペルナンブッコとも知り合うなど作曲と共に旺盛な活動ぶり。
31年ソシエダージ・レコルジ・ラジオに入社し、それから30年間何人もの新しい音楽家を巣立たせる仕事(アレンジャー、バンドを作らせる、オーケストラや楽器奏者、歌手への助言する仕事)に就きます。

61年のラジオ局の退職後は孤独を囲っていたようです。
趣味は絵を描くこととカナリアの飼育。長らく一緒に住んでいた弟の死の翌年、76年10月12日アルマンドは後を追うように亡くなりました。静かに横たわっているアルマンドの足元でカナリアが鳴いていたと記録されています。

死の直前か直後、サンパウロのモッカ地区にあるショーロ・クラブにアルマンドの曲の愛好者12人が集まり、彼の作品をレコード化するプロジェクトが持ち上がりました。本人に作品を残す意欲があまりなかったとしか思えません。
彼らの努力の成果で楽譜などが雑誌「ウルブ・マランドロ」に掲載され、これによりアルマンドの曲が後世に残ることになりました。

ジョアン・ペルナンブッコのギターが渇いた大地ノルデスチへの郷愁だとしたら、アルマンドの曲はカンピナスから北西に広がる大平原を渡る風、青い空の下の丘陵に散乱する太陽の光。僕にはそんな様に感じられます。

 

参考:Liner Notes em CD por Paola Picherzky,18 Choros de Armando Neves,
Violao Mandriao (O pontos de encontro dos amantes do violao)
Portal Luis Nassif
Samba & Choro Armando Neves
Urubú Malandro” aug.1978, Rodrigues Nunes

 

2016 Apr.
貝塚

 

Paola Picherzkyによるアルマンド・ネーヴェス

 

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