2015年6月2日

ベネジット・ラセルダ

Benedito Lacerda
(1903 – 1958)

Benedito & Pixinguinha

ベネジット・ラセルダ & ピシンギーニャ

1936年に出版された「オ・ショーロ」の中でアニマルはラジオから聞こえてくるベネジット・ラセルダのフルートに向かって「どうかカラッドやヴィリアット・シルヴァのショーロを吹いてくれ」と頼んでいます。
アニマルが何を聴いたのか分かりませんが、ベネジットの演奏は20世紀初頭に生まれたラジオという新しい場所に相応しいスタイルだったはずです。
しかしそのベネジットですら、酒に溺れ借金の淵に沈んでいたピシンギーニャを救い出した時、彼ら二人の演奏が後世にどれ程の影響を残すことになるかは想像もしなかったでしょう。
アニマルには悪いですがベネジットの進取の才能に感謝しなければならないと密かに思います。

皮肉にもベネジットはヴィリアット・シルヴァと同じリオデジャネイロ州のマカエの生まれ。8才でフルートを始め、故郷の町の楽団ノーヴァ・アウロラが活躍の場でした。17才の時家族と一緒にリオデジャネイロのエスタシオ地区に引っ越し、ベラルミオ・デ・ソウザからフルートを学びながら国立リオ大学音楽課程で学位(作曲、フルート)を取得しました。

22年19才で安定した生活と音楽を両立させるため軍警察の軍楽隊に就職しましたが、27年に除隊し音楽家として独り立ちの道を選びます。
最初は映画や劇場付き楽団に所属しまたジャズバンドにも入ります。
当時ヨーロッパ(特にフランス)で活躍し「黒いミューズ」と呼ばれたジョセフィーヌ・ベーカーのサンパウロ巡業にも同行しました。
30年には自身のコンジュント、ジェンチ・ド・モッロをシニョの命名で結成しましたが間もなく解散。
この後レジョナル・デ・ベネヂット・ラセルダを結成しました。

 

何回かメンバーの入れ替えを経て、37年に集まったミュージシャンはジノ、メイラ、カニョート・ド・カヴァキーニョ、ポペイェ。このメンバーが後にレジェンドとなるコンジュントの始まりです。

40年代初め所謂「カジノ時代」にリオデジャネイロでウルカやコパカバーナのカジノに出演し、ピシンギーニャと共演のレコードを出しました。このときのベネジットのフルート高音部に対するピシンギーニャのサックスの対位法的演奏がジノやその後の音楽家たちに引き継がれショーロの新しい典型となりました。

「ウン・ア・ゼロ」他、一連の曲がピシンギーニャとの「共作」とクレジットされていますが、これは借金をベネジットが肩代わりしてくれたことに対する感謝の気持ちだったとのことです。
ベネジット自身、カー二バル向けのサンバ・マーチの作品を幾つか残しており、最後の録音もマーチでした。

1942年に作曲家組合を設立し、48-51年の間衣替えしたブラジル音楽著作権協会の理事長職に就いています。自家用飛行機まで持っていたという程お金を溜めて、もう色々な雑事に煩わされるのが嫌になったのかもしれません。
1950年に自ら作ったレジョナルから去り(社交に忙しくて仲間から追い出された?)、2年後には音楽活動も辞めました。
この時ベネジット・ラセルダはまだ49才。
彼が抜けたレジョナルはカニョート・ド・カヴァキーニョやジャコーによる再編成を経て、今も活躍するエポカ・デ・オウロまでつながっています。
60年以上前の出来事がつい昨日の事のようです。

2017 Oct.05 WP

参考:collectors.com.br
cifrantiga
Musicos do Brasil.
Dicionario Cravo Albin・Musica Popular Brasileira
Letras.com.br
「オ・ショーロ」ショーロはこうして誕生した (アニマル著)

 

 

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