2015年6月12日

シキーニャ・ゴンザーガ

Chiquinha Gonzaga
(1847 – 1935)

Chiquinha Gonzaga

Chiquinha Gonzaga

知らず知らずのうちどうしても生き難い道を選んでしまう人がいます。シキーニャ・ゴンザーガの人生も波乱に満ちています。本人だって最初からそんな風に生きるつもりでは無かったでしょうに。

同時代に活躍したジョアキン・カラードやアナクレット・デ・メデイロスと異なりシキーニャはリオデジャネイロの陸軍の高官の家に生まれました。ブルジョア家庭教育の型どおり家庭教師がつき9才でピアノを与えられます。
父親の要請で16才で結婚し2人の子供を産むまでは型通りの人生でした。しかし若い実業家である夫は妻が音楽に関わることを禁止しさらにパラグアイ航路の貿易船(積荷はパラグアイ戦争のための武器、そして前線に送られる兵士や奴隷たち)に強制的に同乗させたことで爆発します。
夫から「私か音楽か」と迫られ「ハーモニーのない家には住めない」と飛び出しますが3人目の子を宿していることを知って仕方なく家に戻ります。父親は娘を受け入れることを拒否。長女は祖母に三女は親戚に預けられます。

シキーニャは長男を連れて町に出ました。世間からは「恥知らず」と指弾され実家からは彼女は死んだものとして扱われます。
生活のためシキーニャはピアノレッスンを始め、ジョアキン・カラードの導きで町のミュージシャンとの交流も始まりました。1869年カラードは「ケリーダ・ポル・トードス」をシキーニャに捧げています。
新しいエンジニアの恋人もできたのですが周囲の目は依然冷たく、恋人と二人でミナス・ジェライス州へ転居しました。しかしこの新しい生活は男の身持ち悪さで破綻しシキーニャは再び長男の手を取ってリオに戻りました。

ここからシキーニャの女性としてまた音楽家としての本当の自立が始まります。
リオのサン・クリスタヴァン地区に小さな家を借りピアノレッスンを行うのと並行し旧友カラードの「ショーロ・カリオカ」と共演し活動の幅を広げていきます。少しずつリオの音楽家の間にその名が浸透していきました。
一晩のパーティの演奏のギャランティーは5レイス程度とか。長男にも弾かせこちらは1レイス。二人合わせて凡そ1万2千円位でしょうか。食事と飲み物は自由。高いのか安いのかは分かりませんがシキーニャの必死さは伝わってきます。

伝統的なクラシック音楽家たちからは大衆音楽ポルカ、タンゴ、ワルツを弾く「ピアネイラ」(ピアニスタでなく)と軽んじられましたが、カラードとシキーニャの活動によって「ショーロ」という言葉が音楽ジャンルに定着していったのは確かです。
この間奴隷解放運動にも加わり家々をまわって楽譜を売ったお金で仲間の黒人フルート奏者の奴隷解放証書を買い取ったりしています。

1885年オペレッタ「ア・コルタ・ナ・ロッサ」が上演されブラジル最初の女性指揮者の栄誉を受け、1877年に発表した「アトラエンテ」が15版も重ねる大ヒットとなりました。そんな栄誉も彼女の父親にとってはむしろ屈辱でさらなる家の恥と考えられていたようでそれは当時の「エリート」たちの平均的リアクションでもありました。

「新しいもの」や「大衆の支持があるもの」つまり「ブラジル的であるもの」を一つのジャンルとして打ち立てるということはヨーロッパ由来の文化を権威の後ろ盾として独占し享受するエスタブリッシュたちのトラウマに対する挑戦であり一種の闘いでした。しかも女性であることで闘争はさらに2倍に拡大しました。
ボヘミアン、バカボンド、尻軽女、気取り屋といったゴシップ的評価。またカフェに女性が出入りすることへの嫌悪、女に作曲は出来ないという偏見等々。
「アトラエンテ」の成功が一種の突破口となり軽蔑や無視から一歩進んで彼女の生き方や音楽が賛成反対の論争の焦点となりました。彼女は否応も無く自分で自分の道を切り拓いたのです。

シキーニャはピアノレッスン作曲演奏の他オペレッタにも力を注いでいます。最初の上演は「ア・コルタ・ナ・ロッサ」でテアトロ・レビスタ(演劇雑誌)の後押しもあり生活が徐々に安定していきました。陳腐な言い方ですが当時「スカートを履いたオッフェンバック」とも呼ばれていたようです。

ランショ・マーチ の「オ・アブレ・アラス」がカーニバルで評判をとった1899年52才のとき、36才年下(つまり16才)の少年と恋仲になり(世間には息子と偽って)、1902年にスキャンダルを避けるためにポルトガルへ逃避行します。この二人の絆はシキーニャの死まで続きました。

1906年から09年のポルトガル滞在中も音楽家として活動し劇場専門誌でも大きな評価を得ました。
1917年演劇人協会(Sociedade Brasileira de Autores Teatrais)設立の際には、発起人のうち唯一の女性として名を連ねます。

アレシャンドロ・ピントはその著書の中で「訪問者にショーロをと頼まれればいつだって気安くピアノの歩他を開け優雅な指使いで弾いてくれた」と書き残しています。

1920年代に入るとあれほど激しい情熱を持っていたシキーニャも子供たちへの手紙の中で「もう傷つく強さもない。十分に傷つき、悲しんだ」と書き残しています。
1935年、87歳でその波乱の人生を終えました。77のミュージカル、約2000曲のワルツ、ポルカ、タンゴ、マシシ、ルンドゥ、ファド、セレナード、聖歌などを残しました。

2017 Sep.29 WP

参考:educacao.uol.com.br/biografias/chiquinha-gonzaga
samba-choro.com.br/artistas/chiquinhagonzaga
vidaslusofonas.pt/chiquinha_gonzaga
Musica Popular Brasileira;Nazareth & Chiquinha,Baptista de Siqueira
ショーロはこうして誕生した (アレシャンドレ・ピント著)

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