2015年9月4日

ジレルマンド・レイス

Direlmando Reis
(1916-1977)

Direlmando reis

Direlmando reis

トランペットのボンフィーリョ・デ・オリベイラ(1891- 1940)がリオを目指し、サンパウロ州の田舎町グアラチンゲッタ(Guaratingueta)を離れたその2年後、この町にもう一人の音楽家が産まれました。

ジレルマンドはギター奏者だった父親から手ほどきを受け、15才の時には既に町で一番のギタリストという評判を得ていました。

1931年、盲目のギタリスト、レヴィーノ・ダ・コンセイソン(Levino da Conceição 1885-1955)のグアラチンゲッタでのコンサートを見たジレルマンドは、そのままレヴィーノの弟子になり、彼の助手として巡業の旅に出ました。
33年、一行がリオデジャネイロに到着すると、ジレルマンドは、レヴィーノの友人であり、かねてより憧れの人であったジョアン・ペルナンブッコ (1883-1947)に会いに行き、互いにギターを弾き、一晩中話し続けたといいます。
翌34年、レヴィーノはカンポス(Campos)へ演奏旅行に行くと言って、まだ18才のジレルマンドに、15日分のホテル代を手渡したまま消えてしまいました。
残されたジレルマンドは(恐らくジョアン・ペルナンブッコの助力を得て)、今も残る古い楽器店バンドリン・デ・オウロ(Bandolim de Ouro)やギターラ・デ・プラッタ(Guitarra de Prata)でギターを教え始めました。
ジレルマンドは信奉するタレガ(Francisco Tarrega)のメソッドを授業に応用していたようです。
彼の元からは、ボーラ・セッチ(Bola Sete)とニカノール・テイシェイラ(Nicanor Teixeira)が育っています。またブラジリアを建設した大統領ジュセリーノ・クビシェッキ(Juscelino Kubitschek de Oliveira, 1902 -1976)の個人教授であったことも知られています。
音楽評論家のアラミス・ミラルシ(Aramis Millarch 1943-1992)によると、「ジレルマンドのギターはクラシック・ギターの演奏方法に似て、幾分饒舌であるが、MPBには見向きもせず、独自の1930年代のスタイルを変えなかった。」との事です。

リオでは、同郷の先輩ボンフィーリョ・デ・オリベイラに音楽理論を学んでいます。そして、自分をホテルに置き去りにしたレヴィーノの元恋人、セレステ(Celeste)と結ばれ、最後まで旅を共にし暮らしました。
後年、レヴィーノの曲(Cancao gaucha, Caterete mineiro)も録音しており、若い頃の苦い思い出も、上手に解決したようです。

まだレコードが78回転だった時代、ソロ録音以外は8年間にわたっていつもメイラ (1909-1982)と組んでいました。70年代には歌手の伴奏としても多くのレコードを残しています。
作曲家としては100曲以上を残しており、現代のギタリストにとって演奏目録の一つになっています。
しかし、皮肉にも、ジレルマンドの一番売れたレコードはジョアン・ペルナンブッコの曲を録音したソンス・デ・カヒリョエス(Sons de carrilhões)でした。
後に、ラダメス・ジニャタリ (1906-1988)は自曲「Concerto no. 1 para Violão e Orquestra」をジレルマンドに捧げています。

リオでの音楽家としての暮らしはギター教室、ラジオ出演(Radio Nacional 1956-1969)、レコード録音などに終始し、そのスタイルに大きな変化も無く、クラシカルな原則に忠実で穏やかだったと記されています。

参考:Dicionario mpb
Cliquemusic

2018 Aug.20 wp

作品

Magoado
Tempo de Crianca
Noite de Lua
Uma Valsa e Dois Amores
Dois Destinos
Doutor Sabe Tudo

 

 

ショローンとその時代

error: Content is protected !!