2017年6月27日

マエストロ・フォンフォン

Maestro FON-FON 
(本名:オタヴィアーノ・ロメロ・モンテイロ)
(Octaviano Romero Monteiro)
(1908-1951)

 

オタヴィアーノは芽が出るまでは苦労しました。故郷はアラゴアス州の州都マセイオ(Maseio)からマンダウ湖(Lagoa Mandau)を挟んで向かい側の小さな町サンタ・ルジア・ド・ノルテ(Santa Luzia do Norte)です。この小さな町では伝統的に道路や教会の前の広場や様々な所で楽隊が演奏していました。彼にとっての最初の音楽学校はそんな場所です。
8歳で家から数キロ離れた村の太鼓とピファノ楽団(Banda dos Zabumba & Pifano)に入っています。

少年期にペルナンブコ州(アラゴアスの北)州都レシフェ(Recife)へ学校に通うために引っ越しましたが直ぐやめ故郷へ戻りました。
そこへサンパウロの就職口の話が舞い込み出発。いざサンパウロに着いたものの兵役についての証明書が無くあえなく挫折。その就職口は諦めざるを得ませんでした。今度は方針を変えてサンパウロ警察に入りそこの警察音楽隊に入ろうとしますが音符を読めない為この夢も適いません。仕方なくマセイオに戻りセールスマンといて働いていました。

27年19歳で再び故郷を離れリオデジャネイロの陸軍歩兵隊に入隊し念願の軍楽隊に入ることが出来ました。
レシフェの音楽フレヴォ(Frevo)の先生であり軍楽隊の教授でもあったガファフィーニャ(Garrafinha)により音楽をもう一度学び直しサキソフォンを始めました。
この楽団のクラリネットのデデ(Dede)がオタビオのサックスの高音がフォンフォンと鳴るのでFon-Fon(フォンフォン)と言うあだ名を付けたらしいです。
30年(22才)に軍隊から離れた後色々なバンドに参加しました。35年からは病気の為音楽活動からも離れていましたが39年に自分の楽団を結成するもこれはうまく行きませんでした。
その後再び楽団を結成しラダメス(Radames Gnattali)を編曲者として契約し、リオのカジノ・アシリオ(Cassino Assrio)でのベニーグッドマン、トミー・ドーシー、アーティー・ショー等の北米流の演奏は大成功を納めました。また彼の楽団はブラジルで最初にサックス、金管楽器をパート分けしています。

42年から47年の間にレコード会社オデオンで様々な歌手(Araci de Almeida,Orlando Silva ,Carmen Miranda,Elizete Cardoso,Francisco Alves)のバックでレコード録音しています。
44年にはマリオ・ロッシ(Mário Rossi)の歌詞、オデッテ・アマラル(Odete Amaral)の歌で、ムルムランド(Murmurando)が録音されこれは歌のつくショーロの古典となっています。
フォンフォンと彼の楽団(FON-FON e sua Orquestra)は、戦後直ぐの47年にクラブ・シャンゼリゼの招聘でパリに渡ります。そのままヨーロッパに滞在し51年にギリシアのアテネにて客死しました。

2017  June WP

 

参考: Maestro Fon Fon

Maestro Fon-Fon, de Santa Luzia do Norte para o mundo

 

 

 

ショローンとその時代

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