2017年6月29日

エンリッキ・デ・メスキータ

Henrique Alves de Mesquita
1830 Rio de Janeiro-1906 Rio de Janeiro

 

 


エンリッキ・メスキータは、ジョアキン・カラッドやシキーニャ・ゴンザガの一世代上になる19世紀前半に生まれた作曲家兼音楽教授で、ブラジリアン・タンゴ(Tango)を世に送り出したと言われています。
19世紀はブラジルにとってヨーロッパ(主にポルトガル)の政治支配からどのように独立するかという命題(言い換えれば、ブラジルという単なる地理的な名称が、ひとつの生命を持った固まりになる為)の解答を求める世紀でした。
1822年のペドロ一世によるポルトガルからの独立の後、31年のペドロ一世の退位、41年のペドロ二世の戴冠まで、各地で共和派の反乱が起きます。
このペドロ二世の即位は諸勢力の妥協の産物でありまたブラジルが王制から共和制へ向かう最終章でもありました。ヨーロッパ自体も48年のフランス二月革命に始まる「諸国民の春」によりウイーン(ハプスブルグ)体制が終焉を迎えています。

因みにペドロ一世の王妃(Maria Leopoldina de Áustria)はハプスブルグ家出身です。今でもブラジル国旗やセレソンのユニフォームの色と言えば「黄色」と「緑」ですが、「黄色」はハプスブルグ家、「緑」はポルトガル王家のブラガンサ家の色であり、1822年の独立の日、王宮前にこの二色の旗が沢山飾られたことが記録に残っています。

一方この混乱は近代化への道程でもあり、国内教育制度の確立も図られ、37年に中等教育のための学校(ペドロ二世高等学校 Coledio Don Pedro Segundo)、48年には帝立音楽院(Imperial Conservatorio de Musica)などが設立されています。エンリッキはこの帝立音楽院に設立年の1848年に入学し対位法とオルガンを最優秀で修了しました。

これによりフランス留学の報奨を受け、翌57年にパリ音楽院(Conservatoire de musique et de déclamation)で和声、オペラを学びました。また留学中に音楽院の教授であったアドルフ・サックス(Adolph Sax)と知り合い、このサックス氏が考案した楽器「サキソフォーン」をブラジルに紹介したことでも知られています。

このヨーロッパ留学が彼にもたらした最大の功績は「ブラジル独自の音楽」を創る情熱でした。66年に帰国し、母校に和声とソルフェージュの教授として招かれました。彼のここでの教え子にはジョアキン・カラッドとアナクレット・デ・メデイロスがいます。

1868年に作られ72年に発表されたオペラ「アリババと40人の盗賊」の内、「闘牛士の目(Olhos matadores)」は、最初のブラジリアン・タンゴです。

シキーニャ・ゴンザガやピシンギーニャの父親アルフレド・ヴィアナ(Alfredo Viana)とも交流があり、後年エルネスト・ナザレはエンヒッキの功績を称え”Mesquitinga”という曲を作っています。

 

2017 June 28 wp

 

参考:Diconario Clavo Albin de MPB
Uma Enciclopedia de Musicos Brasileiros

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