2017年7月10日

パタピオ・シルヴァ

Pattapio Silva
(1881-1907) リオデジャネイロ近郊イタオカラ(Itaocara)生


ジョアキン・カラ-ド、ヴィリアット・フィゲイラ・ダ・シルヴァが相次いで逝った1880年代以降、これに継ぐヴィルティオーゾとして期待されていました。幸運にも彼のレコード録音が残っています。国立音楽学校(Instituto Nacinal de Musica)における、ジョアキン・カラッドの後任教授デュッケ・エストラーダ・メイェール(Duque Estrada Meyer)の生徒で卒業時には最優良生として金のメダルを授与され、何時かヨーロッパに渡航することを夢見ながら演奏旅行中フロリアノポリス(サンタカタリナ州都)で客死しました。

彼は床屋の息子であり、その父は音楽家でもありました。この「床屋音楽」(Musica de barbeiros)とは、床屋兼演奏家と言う、奴隷の職業の一種(主人に役に立つとアピールできる特技)であり、その為幾つもの奴隷の床屋バンドがリオデジャネイロやバイヤには存在しました。このフルート吹きの父親から手ほどきを受け16歳で既にカタグアゼスの町のバンドに入りました。
その後、リオデジャネイロ州北部の様々な町のバンドに入りましたが、1901年20歳の時手に木製フルートとトースト(パン)を10枚持って貨物列車に無賃乗車しリオデジャネイロにやってきます。
昼はタイピストや理容師として働き夜は音楽学校で授業を受ける毎日でしたが、いつも夢と空腹を抱えていたと書かれています。学校では自分独自の演奏方法とスノッブな級友達の信奉するヨーロッパ流演奏との間の軋轢に苦しんでいました。ある日メイェール教授がこの若い生徒の訪問を受けたとき新聞紙に包まれた木製で手作りのフルートを見て笑いを堪え切れませんでしたが彼の演奏を聞くや彼に自宅での毎日の指導を申し出ました。
1902年になると学校内の独奏会で絶賛を博し他の都市での代役公演でも大好評でした。ある公演の後リオ・ブランコ男爵が「何でも欲しいものを言ってごらん」と言うのに対し「その男爵の帽子を頂きたい」と答えたそうです。
1903年にはもう一つの勲章が彼のものになります。音楽学校主催のコンテストに上流階級婦人会が優勝者の為に銀のフルートを贈呈しました。パタピオは優勝しました。しかし贈呈式前にフルートが消えてしまう事件が起きました。
「エリートの為の大会で、貧乏な黒人が優勝してしまった」事実に、耐えられない者がいたようです。卒業後メイエール教授の推薦状を手にパタピオはサンパウロに向かいました。しかし人種偏見の壁は厚く州立学校の教授職も結局は失います。一方では彼のコンサートの大好評に終わりました。この人気を後ろ盾に教授は彼の助手の席を用意しますがパタピオはこれを丁寧に断ります。
1905年にパタピオの才能を愛したメイェール教授が亡くなります。後任は名声と実力では当然パタピオに譲られるべきところを教授の死の数時間後には同級生が選ばれました。

1906年サンパウロで公演やフルートの指導と作曲活動をしていましたがこの時期アフォンソ・ペナ大統領の前で演奏をしています。しかしパタピオの夢はこの時代のすべての音楽家と同じくヨーロッパでの演奏と成功でした。夢の実現には資金が必要だとの考えからパタピオは演奏旅行を計画しました。1907年3月14日にサンパウロを発ち南へ向かうと3月18日のパラナ州首都クリチバを皮切りに各地で公演を続け4月12日にはサンタカタリナ州都フロリアノポリスに到着しました。
同月18日に最初の公演を行うことにしプレスに発表されましたが、その後直ぐパタピオのインフルエンザ罹病の為と公演の延期が発表されました。
24日の深夜2時故郷からは遠く離れた地で彼は死にました。

2017 July 10 wp

 

参考資料:Almanaque do choro André Diniz
All Musica Answer Com (Alvaro Neder, Rovi)

 

ショローンとその時代

error: Content is protected !!