2017年7月15日

ラダメス・ニャタリ

Radames Gnattali
(1906-1988)

ブラジル・ポピュラーミュージック界の巨人ラダメス・ニャタリ。持ち前のインテリジェンスや性格の晦渋さの為かピシンギーニャやジャコー・ド・バンドリンと並べるとどこか存在に陰影さえも感じられます。しかし現代ブラジル・ポピュラー・ミュージック界の近代化への業績ではある面この二人を凌駕しているとも言えます。また彼自身はクラシック音楽家としての自負もありました。

どこに話の糸口を見つけるか悩みましたが、取りあえず彼の故郷ポルト・アレグレから話を始めます。
1896年ラダメスの両親はイタリアからブラジルに移民しブラジル一番南の州リオグランデ・ド・スルの州都ポルト・アレグレに居を構えました。
父親のアレサンドロ・ニャタリ(Alessandro Gnattali)は日雇い人夫をしながら生計を立てていましたが、元来の音楽好きが高じてピアノ、ファゴット、ベース演奏を経て楽団指揮と音楽家としての道を歩み、また母親のアデリア(Adelia)も音楽好きで彼ら兄弟にピアノを教えました。
この夫婦は最初の3人の子供にRadames, Aida, Ernaiとヴェルディのオペラの主人公の名前を与えています。貧乏ながらも音楽がいつも流れている家庭が想像されます。
ラダメスは産まれた家(中心地区近くのフェルナンデス・ヴィエイラ通り Rua Fernandes Vieira)の近所のイタリア人学校に通っていましたが14歳で学業を放擲していましました。理由は彼自身の言に拠れば「吃音の所為で口答試験で零点を取ったから」と言うことです。
父親が心配して「将来何になりたいか」と聞いたところ「音楽家だ」との答え。父親の勧めでポルトアレグレ音楽学校(今の国立リオグランデドスル音楽大学)ピアノ学科の5年次に入学し9年間在籍しました。
本人曰く「当時はあの馬鹿げた入学試験が無かった」から入学できたとのこと。
この学校でヨーロッパ・クラシックを学びました。

大学時代も教授のフォンタイーニャ(Fontainha)に連れられリオデジャネイロでコンサートに参加していますが最終的にリオに拠点を移したのは、1931年です。
フォンタイーニャ先生がリオからリオデジャネイロ音楽学校の教授の口があると手紙をくれポルトアレグレのすべてを投げ打ってリオに出てきました。そこで就職試験を4-5ヶ月待ったでしょうか、しかし全然何も起きません。
ラダメスは痺れを切らしてポルトアレグレの政治家の紹介状を持って当時のブラジルの大統領ジェツリオ・ヴァーガス(Getulio Vagas)を訪ねました。数日後会っても良いとの電報を受け取り再度大統領官邸に出かけました。
大統領はまだ若造のラダメスに「セニョールは何が望みなのか」と聞きます。
「この年末までに就職試験があるかどうかだけが知りたいのだ」と彼は返事をしました。
大統領が威厳を以って言うには「試験は行われます。心配せずともこの私が約束します」とのこと。結局それは政治家の言葉。何も起こらなかったのは言うまでもありません。
「その頃が一番悲惨な頃でしたが、自分だけでなくすべての音楽家にとって同じような状況でした」と彼自身が語っています。

1930年前後アルバイトでラジオ局の音楽番組でのピアニストの職を見つけます。
最初はラジオ・クラブ(Radio Club)、次がカジュチ(Radio Cajuti),そして彼の名前を確立したラジオ・ナショナル(国立ラジオ局 Radio Nacional)です。

後年ラダメスは「ポピュラー音楽は好きでこれが人生に大きく寄与してくれた事には感謝している。しかし本当はクラシックの音楽家になりたかった」と言っています。
ポルトアレグレ時代にも家の近くの映画館やバーでポピュラー音楽のピアノ弾きで金を稼いでいたこともありますが、このラジオ・ナショナルでの仕事が彼の人生の重要な位置を占めることになりました。

ラジオ・ナショナルでは約30年ほど働きラジオの時代の波もありポピュラー音楽番組「百万個のメロディー(Um Milhao de Musicas)」の影響力は今では想像もできないものでだったでしょう。番組は毎週水曜日に放送されラダメスはピアニストではなく編曲者として毎週9曲の編曲をし続けました。
何しろ広告主に気兼ねすることが無い国立のラジオ局で予算も豊富に有ったようで、思い切り好きなように編曲したようです。

放浪画家山下清の「それを兵隊の位で言うと?」。よく分からない物や事柄を何か他の物に置き換えて説明しようとすると、大概見当はずれに終わってしまいますが、あえて「百万個のメロディーとハダメス」は「日本では何と例えるか?」と考えてみました。
思いついたのは日曜日の朝の「題名の無い音楽会」と黛敏郎です。しかしやはり見当はずれです。(ポピュラー音楽とその影響力の点で)
これに服部良一を足し、それからもう少し何か(それが何かうまく言えないし、それが肝心のような気がします)を加えた感じになりましょうか。

ハダメスのコメント集

エルネスト・ナザレ
Ernesto Nazareth

エルネストがリオブランコ通りとセッチデセテンブロ通りの交差点にあったオデオン劇場で弾いていたのは、私が25-26歳だった頃で、そこで彼を知りました。
ある日劇場前を通り過ぎるとピアノの音が聞こえ、それは彼自身が弾いている音でした。今のピアニスト達は彼の曲を弾くべき形で演奏していないと思う。それは多分エルネストを「ただの町場のピアノ弾き」とでも思っているからでしょう。エルネストはスタッカートを全然使わず、まるでショパンのようにペダルを使って弾いていました。
本当に良いピアニストでした。

ガロート
Garoto (Anibal Augusto Sardinha)

私はショーロを吹こうとフルートを買っていました。
偶然サンパウロ400年記念曲で得たお金でガロートは私の牧場横の敷地を買い、まだ家が完成する前から引っ越してきました。夜になると彼がギター、私がフルートで合奏をやっていましたが、私は「世界で一番優れたギター伴奏者」を持つ最悪のフルート奏者でした。

ピシンギーニャ
Pixinguinha (Alfredo da Rocha Viana Filho)

ピシンギーニャを知ったのは30年代。彼がチラデンテス広場のダンスホール・エルドラドで演奏しているときでした。当時良くあった小さなジャズバンドで時々ショーロも演奏していて、そこで私も学んだものです。
その後私達はジアボス・ド・セウ楽団(Orquestra Os Diabos do Ceu)で一緒になりました。
彼はサンバの編曲もやっていてそれに彼のフルート演奏も作曲もとても優れていました。
当時の彼は楽団の為少し古臭いスタイルで編曲し私はピアニストとしてそれらの曲を弾いていました。私がロマンティックな曲を編曲すると、今度は彼がフルート、ロメウ・ジピスマン(Romeu Ghypsman)がギターを演奏してくれました。
その後ピシンギーニャと随分親しくなりました。彼は私にとって父親のように特別な人間でした。
そして作曲家としてもフルート吹きとしても最高だったのは言うまでも有りません。

カメラッタ・カリオカ
Camerata Carioca

ある日、ジョエル・ナシメントが家を訪ねてきて「レトラトス」(Retoratos)をオーケストラ曲からバンド曲へ編曲してくれと頼んできた。自分ではうまく行かないだろうと思っていたが案に相違して良く出来ました。
カメラッタと一緒に働き始めたとき彼らはよくやると思いました。
つまり「学びたくて、そして演奏したい奴等は自然と、良く学んで良く演奏できる」と言うことです。

注:78年(79年?)結成のカメラッタ・カリオカのオリジナル・メンバーは、Joel Nascimento(Bandolim), Raphael Rabelo(Violao 7 cordas), Luciana Rabello (Cavaqinho),Mauricio Carrilho (Violao), Celsinho Silva (Pandeiro)で、上記「レトラトス」の演奏の為に編成されていましたが、同年のジャコーへの追悼プロジェクト演奏にあたり、ヘルミニオ・ベロ・デ・カルヴァーリョ(Herminio Bello de Carvalho)がこのグループの名をカメラッタ・カリオカと名づけました。

グループにはもう一つの編成があり(82年)、Joao Pedro Borges (violao de sete cordas), Henrique Cazes (cavaquinho), Beto Cazes (pandeiros),Edgar Goncalves (sopros) で、LPのVivaldi & Pixinguinhaの録音の為に編成されました。(参考:br-instrumental.blogspot)

トム・ジョビン
Tom Jobim (Antonio Carlos Jobim)

私がコパカーナに住んでいた頃、トムはよく訪ねてきた。
彼は落ち込んでいて私に助言を求めてきた。
私はトムに言った。「誰も君に教えるなんて出来ない。私にも同じようなことがあったよ。
結局自分の中にあって外に出る準備が出来たものを出していくしかないと思う。
何かに捕らえられていても何も起こらない。君は自分を導いてくれる誰かを探す必要なんか無い。何故なら誰も君を導けないからだ。僕は、君はピアノやオーケストラ向けの良い曲を書くと信じている。そしてその時には君が指揮して僕がピアノを演奏するから」と。
で結局そうなりました。

トム曰く。
「あれはラジオ・ナショナルだったと思う。私はあの無能な奴等への恐怖で死にそうだった。
ラジオ労働組合の人間がストップウオッチを片手に「練習はそこまで」と叫ぶんだ。ラダメスはこの猛獣達との間に入って助けてくれたよ」

以上。やはりラダメスの事跡は簡単にはまとめられません。リオデジャネイロで亡くなりました。82歳でした。

参考:Radames Gnattali公式サイト
ACARI Artestas
Artist Biography by Alvaro Neder

 

2017 July 14 wp

 

ショローンとその時代

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