2015年4月25日

ショーロの歴史

ショーロ の発生

ショーロ とは ショーロは19世紀後半リオデジャネイロに誕生しました。
劇場や上流階級のサロンで演奏されるクラシック音楽とは別に「ブラジル的」な街場の音楽としてです。

といっても、「 ショーロ 」という音楽ジャンルがあったわけでなく、ミュージシャンが得意楽器を持ち寄り、幾晩も弾いて楽しむ集まりを「 ショーロ 」、ここに集まるミュージシャンを「ショローン」と呼んだことが所謂「 ショーロ 」の始まりです。
ショローンの数はリオの中心地だけで300人を超えておりリオっ子の音楽好きぶりが覗えます。

当時、中流・下層階級でもダンスを楽しむために開かれる「バイレ」や音楽を聴きながら料理を楽しむ「パゴージ」(音楽ジャンル「バゴージ」ではありません)をカトリック教会の祝祭日や家族の祝い事に開く習慣があり、この音楽を支えていたのがショローンたちです。
でも目当てはお金でなくフェスタに出る飲み物や食べ物。彼らの殆どが公務員などの正業を持っていました。大衆音楽がまだ産業化されていなかった時代の音楽家たちです。

20世紀を迎えると産業の発展とともに街場の音楽が商業化され、作曲家やレコード、ラジオの時代に活躍するプロのミュージシャンが生まれてきました。
彼らがショーロの第二世代とも現代ショーロの第一世代と言うべき存在です。

 

ブラジルの独立

19世紀初頭からのヨーロッパはフランス革命の申し子ナポレオンが引き起こした戦争で大騒ぎでした。
ブラジルを支配していたポルトガルも大変な事に。ポルトガル王朝はナポレオン一味の圧迫を受け、1807年首都リスボンを捨て大西洋の向こうにある植民地ブラジル(リオデジャネイロ)に避難します。

ナポレオンの失脚により帰郷できるまでの15年の間王朝はブラジルに在りました。この間にブラジルは植民地と言う地位から本国と対等な王国に格上げされ、更にリオデジャネイロは連合王国のの首都となりミナスジェライス(金やダイヤモンド他の鉱山密集地)の外港であった地の利もあって、政治、文化、教育の中心地として変貌を遂げました。

ブラジルの政体自体も大きく変化します。
王朝がヨーロッパに去った後に王太子がブラジル王朝を創設し、ポルトガルから独立。その後約65年程続いたこの王朝が最終的にヨーロッパに追放されブラジルに共和制国家が成立します。

日本でも同じ頃、江戸爛熟の文化文政期から黒船来航、そして開国、明治維新、自主独立の憲法発布、帝国議会開設へと閉じて煮詰まった文化を外国製の新しい衣に着替えるための混乱と言うか苦しみと希望を孕んだ激変の時代を迎えています。

 

19世紀のヨーロッパ音楽は今に繋がる

音楽が響く場所は中世では教会、ルネッサンス期は宮廷、そして19世紀産業革命後の国立(オペラ)劇場、ブルジョアジー邸宅のサロン、20世紀ともなるとポータブル蓄音機の発明によって一般家庭(!)の居間、更に21世紀になるとウォークマンとインターネットによって直接的に「耳」へと変ってきました。その先は想像ですが「脳髄」そのもの「細胞」で聴く時代も遠くないような気がします。
政治的には神聖ローマ帝国とローマカトリックの並立政治から、絶対王朝、ブルジョア資本社会、大衆民主社会、現在はなんと呼んだらいいのでしょうか、人々がバラバラでいながらもつながっている「いわしの大群」社会とでも言うしかないですね。そんな具合に変遷してきました。

19世紀は工業の世紀でもあります。
一点物から規格品へ。
貴族だけが享受していた文化(オペラやサロンミュージック)が一般市民(ブルジョアジーの間にとは言え)も手に取れるような時代がやってきました。
バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルトと言った18世紀の巨匠達とパトロンの関係とショパン、リスト達の19世紀ヴィルティオーゾたちと聴衆との関係は時代の変化そのものです。ピアノが改良さ量産され子女にピアノを習わせることが流行し、ピアノ教本が出版され、大リーグボール養成ギブスのようなピアノを弾くための器具の発明されています。
社会はそれまでのゆっくりした動きから急ぎ足になります。
フランス革命、ナポレオンの霍乱、ウイーン体制、5月革命、植民地主義から帝国主義へ。現代に続く混乱の種はこの頃には萌芽が見えます。
ショーロ はその19世紀ヨーロッパクラシックの子弟です。工業と産業資本とヨーロッパクラシック音楽がブラジルへやってきました。つまり安価な楽器とブルジョア社会文化と音楽です。

 

混血は新しい文化

1820年前後にポルカやワルツ等がヨーロッパ宮廷界にペストの如く蔓延しました。
その様子はウイーン会議(1814-15年 ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序を決める為に開かれた)を形容したメテルニヒの言葉「会議は踊る」の通りだったかもしれません。
ウイーンのハプスブルグ家出身の王妃を擁するブラジル王朝は神聖同盟の一員であったこともあり、ヨーロッパの流行がそのまま流入しました。

一方振興勢力であるコーヒー男爵等の農場主たちの間にもダンスミュージックが流行りました。
何の娯楽も無い地方の大農場主は自らの奴隷たちによるバンドを編成し始めます。奴隷に技能を身に着けさせ高く売るという目的もあったのでしょうがそれがブラジル音楽に大きな影響を残しました。
奴隷解放と王制崩壊によりアフリカ系奴隷達には逆に農場に住めなくなった者もいました。
彼等が職を求めてリオ・デ・ジャネイロに移住し始めた事によりアフリカ系の独特なリズムがヨーロッパ出自の音楽と混ざり合い、一つの融合した新しい音楽を生み出すことになります。ヨーロッパ系のダンスミュージック、ポルカ、ワルツ、ショチッシュ、マズルカに、アフリカ系のリズム、ルンドウ、バテュケがミックスされブラジル初めての都会音楽 ショーロ が生まれました。
この中で特にポルカは「ブラジルで生まれたブラジル音楽」と言い合わされる程リオの市民に愛されました。

同じ頃鹿鳴館(1883~1894)で演奏されていた音楽も、ワルツ、ポルカ、カドリールなどです。どうやら世界のあちらこちらで、同じような曲にあわせてダンスを踊っていたようです。
王の追放(1889年)の少し前、1870年頃に ショーロ の父と呼ばれるジョアキン・カラードが活躍し始めています。

4人の ショーロ の祖

 

ショーロ の父ジョアキン・カラードと、自立する女シキーニャ・ゴンザガ

リオデジャネイロはほぼ南回帰線上にあり赤道直下ではないにしろやはり南洋的な気候です。
ジョアキン・カラー
ドは、1848年ロンドンで共産党宣言が出版された年リオデジャネイロで楽団指揮者の息子として生まれました。
彼の人生は32年と短いものでしたが、「 ショーロ の父」として呼び称されています。
リオデジャネイロ音楽院を卒業しクラシックのフルート奏者として活躍しながら一方では街場のバイレ、パーティでも喜んで演奏しました。彼の編成したバンド「 ショーロ ・カリオカ」がそのまま ショーロ という音楽ジャンルの代名詞となり、フルート、ギター、カヴァキーニョというバンド編成が ショーロ の基本となりましたた。
今でも彼の作った曲「フロール・アモローザ」(他70曲余り)は沢山のショローンたちにより演奏されています。
シキーニャ・ゴンザガは1847年リオデジャネイロで帝国陸軍将軍の娘という裕福な家庭に生まれました。平凡でも幸福な人生を歩むはずでしたが夫の浮気を機に家を出ました。幼い頃から習い覚えたピアノで楽器店や楽譜店でのデモンストレーションやバイレでの演奏で生計を立て始めます。ジョアキン・カラ-ドも後押ししました。自作「アトラエンテ」が何版も出版を重ねる成功を収めることになり、後にオペレッタも数多く手がけました。カラッドは彼女に 「ケリード・ポル・トードス」(我々皆の愛しい人)を捧げています。
52歳のときには16歳の教え子と恋仲になりポルトガルへ逃避行を行うなど最初の「ショローナ(女性のショローン)」の名に恥じない自主独立の女性です。

ブラジリアンタンゴとナザレ

エルネスト・ナザレ(1863~1934)は、300曲近くのピアノ曲を作りましたが、その作品のかなり多くの曲に「タンゴ」と副題を与えています。

タンゴは今ではアルゼンチンタンゴが非常に有名ですが、19世紀当時はブラジルでもタンゴという名前の音楽が存在していました。
大航海時代を経て中南米はヨーロッパ各地と交流があり、また中南米の都市間でも船乗りたちによる流行の波及がありました。ハイチは旧フランス植民地でしたが1791年の革命によりその地にあったフランス産のコントルダンスがキューバにもたらされました。これがハバネラの源流といわれています。
このキューバのハバネラが船乗りによりスペイン本国に飛び火して大流行となり、あたかもスペイン音楽であるかとの誤解も生じ、パリ生まれであるビゼーのカルメン「ハバネラの歌」などもどうやらこれのようです。
また南半球の港町のリオデジャネイロ、モンテヴィデオ、ブエノスアイレスにも船乗りたちは好きな音楽を抱えて各地で踊っていたらしく、このハバネラがタンゴの曽祖父ぐらいになるでしょうか。一方コントルダンスで特に4人で踊るダンスはカドリールに発展し ショーロ の一要素ともなりました。

ジャズ・エイジ

産業革命はその覇者アメリカ合衆国の大衆文化を瞬時に世界に広めました。20世紀以降の ショーロ 何となくモダンな感じがするのもその所為ではないかと思います。ショパン好きのナザレにラグタイムの香りがするのもそういう理由があるかもしれません。何しろ20世紀文化の象徴である映画の上映館でピアノを弾いていたくらいですから。ナラ・レオンも歌っている、ナザレ作曲「オデオン」はこの映画館のことです。
ブラジル最大の作曲家エイトール・ヴィラ=ロボスも一連の ショーロ 曲を作曲していますが、彼もエルネストと一緒にこのオデオン劇場でチェロを弾いていたエピソードが残っています。

 

当時のサイレントムービー

 

エルネストは1910~13年と1917~18年に、リオデジャネイロのセントロ地区のオデオン劇場待合室でピアノを弾いていました。(2回目が20~24年と言う説もあります。)
当時のサイレントムービーは1913年頃にフランス映画「ファントマ」の連作があり、15年になると「チャップリンの拳闘」が製作されています。(日本では、同年にそれぞれ浅草6区の金龍館、電気館で上映されています。)17年には「チャップリンの勇敢」、「チャップリンの冒険」が製作されています。
エルネストはファントマやチャップリンが登場する映画館でピアノを弾いていたのではないかと推定してみても大きな間違いではなさそうです。
同じ頃日本では、帝都浅草6区の映画街に薮入りの休みを貰って一張羅にめかし込んだ鳥打帽姿の丁稚たちがひしめき合い、楽隊音楽と弁士の声に笑い手に汗を握り或いは涙しつつ見上げていたその銀幕にリオのオデオン劇場と同じ活劇やロマンスが映じていた、などと想像するのも楽しいものです。

 

ラッキーボーイ ピシンギーニャ

ピシンギーニャは、1897年4月23日に生まれました。この日は「 ショーロ の日」として祝福され記念の行事が執り行われています。「ピシンギーニャ」と言うあだ名については本人も何故この名が付いたのか分からないと言っています。父親アルフレッド・ビアナの経営するペンション・ビアナ(強いて訳せば「安宿ビアナ」、8室あったとのこと)の下宿人に ショーロ 奏者がいたこともあり、幼い頃から音楽家に囲まれて育ち、そのうちの一人イリネウ・バチーナに教えられたとの伝説が残っています。もっともイリネウ本人はピシンギーニャは一人で学んだと言っていますが。
1930年代以降はラジオの時代です。ミュージシャンの活躍の場が広がりプロの音楽家が続々と誕生始めました。その中でもピシンギーニャは作曲家としても演奏家としても時代の寵児となります。またベネジット・ラセルダのフルートのメロディにサキソフォンによる低音部の対位法的な演奏によりショーロ 界のバッハとも称されます。
マスコミニケーションと言う新しい場を切り開いたピシンギーニャは「 ショーロ の中興の祖」というより、「現代 ショーロ の源」と呼ぶ方がより近い気がします。

ラジオの時代以降

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1936年に出版された「オ・ショーロ」(アレシャンドレ・ピント著作 邦題「ショーロはこうして誕生した」)によればそれまでのショローンは郵便配達夫や電報配達夫、鉄道会社、市役所職員等々、今でいうアマチュア演奏家が殆どでした。それは街場の音楽家を食べさせるだけの産業的な基盤が無かったからとも言えるでしょう。
ラジオの出現は音楽家たちの生活を一変させます。プロの音楽家の誕生です。出来たばかりの各ラジオ局は自前の歌手とそれを伴奏する(できる)器楽演奏家たちに音楽家として生きる場所を提供しました。
アメリカで活躍したカルメン・ミランダのバックを勤めたガロートやその前から活躍していたピシンギーニャ。
そしてラジオ・ナショナルに「百万人のメロディ」という音楽番組を長くプロデュースした巨匠ハダメス・ニャタリなど、多くのプロミュージシャンが生まれました。
それまで「演奏スタイルとしてのショーロ」だったのが「音楽ジャンルとしてのショーロ」として確立されたのはこの頃のようです。サンバのリズムと同じように「ショーロというリズム」が生まれました。(この為同じ音楽ジャンルだったショチッシュ、マズルカ、タンゴ、マシシ、ポルカなどと区別してショーロと言う場合もありますが、本稿では特に分けて記載していません。)
今でもよく耳にするジャコー・ド・バンドリンやヴァルジール・アゼヴェードはこのラジオの時代の最後の光とも言えます。
60年代以降新しいメディア、テレビの出現により古くからのショーロ・ミュージシャンは場所を失って行きます。
マルクス・ペレイラによるアベル・フェヘイラのLPの解説やエバンドロ・ド・バンドリンの苦労話からも1920年代以降に生まれた音楽家たちが油が乗った中年になってから直面した「演奏する場所を断たれる」という辛い思いが偲ばれます。

70年代後半、マルセロ・カヒーリョ、ルシアーナ・ハベーロ、ハファエル・ハベーロ、エンヒッキ・カーゼス、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ等々もう一世代若いミュージシャンにより一旦は消えかかったショーロの火が蘇りました。そして今でも燃え続けています。

それから40年、ナナント、今では日本語のショーロサイトもあるじゃないですか!!

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