作曲家列伝


彼らの生んだショーロスタンダード




Tia Ciatae TiaJosefa


<作曲家列伝 番外編>

Tia Ciata
(チア・シアッタ)
Hilaria Batista de Almeida
(1854-1924)



チア・シアッタは作曲家でも演奏家でもありません。
しかし、今から凡そ100年前にショーロやサンバのミュージシャン達が集う「場所」を作りだしたという点で、その功績は評価されるべきでしょう。

ピシンギーニャがそこにいたし、最初に録音されたサンバ曲"Pelo telefone"もそこで生まれました。
何人かいた同様の「チア(おばさん)」の中でも、最も語られることの多い象徴的な存在です。

バイアで生まれ、1876年、22才の時リオデジャネイロに移りました。88年の最終的な奴隷解放令(黄金法)以前のことです。
リオでは得意な料理の腕を活かし、バイア独特の衣装をまとって9月7日通り(Rua 7 de setembro)に立ち、お盆に載せた郷土料理を売り始めました。
またカーニバルや劇場用の衣装の貸出しを行なうなど、当時の活発なバイア女性の典型だったようです。

オリシャ

また、ブラジル東北部で黒人の間で広まっていた(そして今でもブラジル文化のルーツのひとつでもある)カンドンブレ(Candomblé)の巫女(mãe de santo)としても活動を続けました。

カンドンブレの精霊達、所謂オリシャス(Orixas)に祈り憑依するための音楽と踊りには、遠きアフリカの風景が閉じ込められています。

後年(1937~45)、カンドンブレが違法とされた時代がありました。
「解放」後の元奴隷たちが持つ異質な文化を恐れた当時の政府は、その活動や集会を禁じたのです。
同様にサンバに対しても、浮浪者や貧困者のものとして警察が目を光らせていました。
ピシンギーニャは「ショーロは広間で、サンバは(表通りから見えないように)裏庭で演奏されていた」と回想しています。

プラッサ・オンゼ

チア・シアッタの住居のあったイタウナ子爵通り(rua Visconde de Itaúna 117)は、小アフリカと呼ばれたプラッサ・オンゼ(Praça Onze)にあり、バイア出身の元奴隷たちが集まる場所でもありました。

彼女は、甥の誰それのお祝いとか、何かと理由を設けては家で料理を振る舞い、これを目当ての音楽家、政治家、ボヘミアンたちが段々増えた結果、一種の文化的なサロンのような場が出来ていました。

通常はこうした集まりは警察の監視対象となりますが、ここは例外でした。

或る警察の高官が、巫女としても有名なチア・シアッタに、当時足の病に苦しんでいた大統領の話をしたところ、「エルバを混ぜ込んだパスタを巻いておくよう」という処方を与えられます。
これを実践した大統領の病はすっかり癒え、それ以後、彼女の家は警察から特別な計らいを受けていたようです。

エイトール・ドス・プラゼレス

彼女の家の常連はピシンギーニャ、ドンガ( Donga)、ジョアン・バイアーナ(João da Baiana)、シーニョ(Sinhô)、画家のエイトール・ドス・プラゼレス(Heitor dos Prazeres)といった面々です。
そして、ドンガやジョアン・バイアーナの母親もまた、この「チア」と呼ばれた「バイアのおばさん達」の一人でした。

彼女らは今も「サンバの母親」としてエスコーラ・デ・サンバの尊敬を受けています。なかでもチア・シアッタは特別で、何年もの間、彼女の家の前でサンバの行進を一度止め敬意を表す習慣があった程です。

18世紀ヨーロッパに於いて、王侯・貴族のパトロンたちによって催された「饗応」が、ブラジルでは社会的に最下層にあるバイアのチアたちによって行われたこと、そして、そこで生まれ育ったものが、現在のブラジル文化の一つの元型となったことに、個人的に深く興味を覚えます。


参考:http://www.dicionariompb.com.br/tia-ciata/biografia
Portal da Cultura Negra
"Tia Ciata" por Roberto Moura
Portal Sao Francisco "Candomblé"
http://www.titanproducoes.com.br/TiaCiata.html
http://www.xangosol.com/batuque.htm
Samba: A influência da tia Ciata
PARA ALÉM DA CASA DA TIA CIATA:Tiago de Melo Gomes

貝塚正美

2012 04