カニョート(カヴァキーニョ)

カニョート・ド・カヴァキーニョ
Canhoto do Cavaquinho
(本名 Waldiro Frederico Tramontano)
1908, Rio de Janeiro – 1987 Rio de Janeiro

リオデジャネイロに住むフルーチストの熊本尚美さんに「カニョートの演奏は何処に残っているか」とアルバム名を質問したことがあります。
答えは「注意深く様々なミュージシャンのライナーノートを読めば、カニョートの名は沢山見つかる」でした。
確かにその通りでした。あちらこちらにその名を見つけました。

7歳で父親を失ったカニョートは(4人の弟がいた)幼いころから稼がなければなりませんでした。ゴルフ場のボール拾い、パンの配達などをしながらそれでも空いた時間を父親から貰ったカヴァキーニョに充て、若くしてアルヴァロ・サンディン率いるフロール・デ・アバカチのショーロ演奏に参加しました。

カニョートの功績の一つがカヴァキーニョをショーロやサンバの中心楽器として確立させたことです。(師匠はガルディーノ・バレット)
彼の後ヴァルヂール・アゼベードがこの楽器をコンジュント内での伴奏だけでなく花形楽器とさせています。

二つ目がレジョナルの活動やそのメンバーの活躍から彼の名が聞こえてきます。
1920年代からのレジョナルの歴史のなかでピシンギーニャも共演したベネジット・ラセルダのレジョナルから現在まで続くエポカ・デ・オウロへつなぐ役割とその中でメイラとジノ7コルダスという現代ブラジル音楽界で最高のギターデュエットを世に出しました。(ベネジットのバンドを引き受けた時にそんな風になるとは思ってもみなかったでしょうが)

レジョナルは19世紀の終わりから20世紀初頭にかけフルート、カヴァキーニョ、ギターのトリオ編成でリオで産まれました。
1920年代それまでの集音器に代わりマイクで集音する電気録音が始まり、大音響を集音器近くで発生させる必要が無くなりました。
これにより各演奏者がそれぞれの立ち位置で録音できるようになり、この技術革新がコンジュントの育成を助けました。
一方この時期ラジオ放送が始まり、マイク近くで演奏できる歌手プラス小編成バンドが一般的な音楽番組の編成となりました。
当然これはショローンには願ってもいない機会で多くのレジョナルが誕生しました。

1930年ベネジット・ラセルダによりジェンチ・ド・モッロ(Gente do Morro)が結成されました。これにカニョートが呼ばれています。
34年にバンド名をレジョナル・ド・ベネジット・ラセルダ(Regional de Benedito Lacerda)に変え人気を博しました。
37年にメイラとジノが入り、カニョートと共にブラジル音楽での伴奏のコアの一つに数えられました。
40年代後半にはピシンギーニャがサキソフォンで参加しベネジットのフルートに対する対位法演奏という名高いものとなっています。

50年ベネジットが飛行機を保有する大金持ちになって仕事以外の約束をいっぱい抱え、演奏活動に支障をきたすようになりこれをカニョートが引き受けました。
カニョートとメイラ、ジノ。ベネジットの後釜としてフルートのアルタミラ・カリーリョ(後にカルロス・ポヤレス)、アコーディオンのオルランド・シルヴェイラ(Orlando Silveira)、パンデイロはそのままジルソン・デ・フレイタス(Gilson de Freitas,後にジョルジーニョ・ド・パンデイロ Jorginho do Pandeiro)が参加し、レジョナル・ド・カニョートが完成しました。(ピシンギーニャは参加せずオーケストラ演奏に戻りました。)

また結成後すぐにチュチ(Tute)の後を継ぐようにジノが7弦ギターで演奏を始め、この楽器の新しい歴史がはじまりました。

この30年代のベネジットとカニョートとの出会いから80年代初頭にカニョートとメイラが亡くなるまでの間、この4人のカルテットがブラジル・ポピュラー音楽の一つの参照されるべき山脈となっていいます。

参考:Dicionario Cravo Albin
Casa do Choro

ショローンとその時代