ジョアン・トメ

ジョアン・トメ

João Tomé
1920(Uberaba MG)-1971(Brasilia DF)

ジョアン・トメは1920年ミナス・ジェライス州の南西部の片田舎ウベラバ(Uberaba)で生まれました。
生まれた時より盲目でしたが、音楽好きで一人で楽器の演奏を覚えました。
後年「7つの楽器の男」と呼ばれましたが、長女のドロレス(Dolores)によればもっと沢山の楽器を操れたようです。
まだ16才だったジョアンは既にその才能を地元では知られていたようで、36年11月22日に新聞(A Marreta de Uberaba)よりインタビューを受けています。
そこで、まるで自然に自分の内側の声が聞こえるかのように「僕は貧乏で辛いけれど、それでも音楽(作曲)という天命がある」と言っています。

17才の時フルートを習うため音楽教授アンテノジェネス・マガリャエンスの門を叩きました
先生は聞きました。「君、楽器を持っているの?」
ジョアンが見せたのは、手作りの竹製のフルートでした。
先生はジョアンを引き受けましたが、却ってその才能に驚きキーが5つのフルートを与えました。(注:後年、叔父さんより普通のフルートを与えられました)
この1937年8月の或午後は忘れ得ぬ日になったと、後日コメントを残しています。

オーケストラやコンジュントを組んでのクラブやボアッチでの演奏の傍ら、ラジオ局での仕事が大きな位置を占めていましたが、
自身が盲目者用に10年近くかけて完成させた「点字音楽教書」(Prefacios dos Livros de Musica em Braille)全7巻も大きな仕事です。
生涯にわたり800曲以上作り、この内200曲余りがこの全書に収められています。

肩書きも多く、ウベラバ盲人学校音楽教授、ウベラバPRE5ラジオ局職員、ブラジリアナショナル・テレビ局職員、ブラジリア音楽学校創立者兼音楽教授などです。
演奏家、作曲家、教育者、先達、色々な言葉が浮かびます。

71年ブラジリアで亡くなりました。5人の子供を残し、2005年にドロレスが父の残した曲のCD(Piquenique)を発表しました。

後記:日本では殆ど彼の名前は知られていないと思います。サンパウロのレコードショップでショーロCD探しをしているとき、偶然に彼の娘のドロリスが父親のオマージュのために製作したCD「ピクニック」を手に入れ、「ジョアン・トメ」の存在を知りました。アルバムジャケットには点字が付されています。

参考:CD”Piquenique”ライナーノーツ
ジョアン・トメの孫Vera Maria Tomé de Abreuのブラジリア大学修士論文”Uma Trajetria Musica de Uberau Ate A CapitalFederal”
Dicionario Cravo Albin da Musica Popular Brasileira

注:2017年末のサイトダウンにより再び初校より文章をおこしましたが、一部資料で参照先が見つかりませんでした。再チェックできずに元の原稿を再校正して載せています。

ショローンとその時代