2018年5月31日

パタピオ・シルヴァ

パタピオ・シルヴァ Patápio Silva
(1881-1907)
リオデジャネイロ近郊のイタオカラ(Itaocara)生まれ。

 


神話であり伝説でもある夭折の天才フルート奏者。

ジョアキン・カラッド(joaquim Callado)、ヴィリタリオ・フィゲイラ(Viritario Figueira)が相次いで逝った1880年代以降、彼らに継ぐヴィルティオーゾとして名を残しています。
その活躍は幸運にもレコード録音されており今でも聴くことが出来ます。

国立音楽学校(Instituto Nacinal de Musica)におけるジョアキム・カラッドの後任教授デュッケ・エストラーダ・メイェール(Duque Estrada Meyer)の生徒で、卒業時には最優良生として金のメダルを授与され、何時かヨーロッパに渡航することを夢見ながら、演奏旅行先のフロリアノポリス(Florianoplolis サンタカタリナ州都)で客死しました。

パタピオは床屋の息子であり父は音楽家でもありました。
床屋音楽(Musica de barbeiros)は床屋兼演奏家と云う奴隷達の職業の一種(主人に役に立つとアピールできる特技)であり、幾つもの奴隷の床屋バンドがリオデジャネイロやバイヤにはありました。このフルート吹きの父親から手ほどきを受け16歳で既にカタグアゼスの町のバンドに入りました。

その後リオデジャネイロ州北部の様々な町のバンドに入りましたが、1901年20歳の時手に木製フルートとトーストを10枚持って貨物列車に飛び乗りリオデジャネイロにやってきます。
昼はタイピストや理容師として働き、夜は音楽学校で授業を受ける毎日でしたが、いつも夢と空腹を抱えていたと書かれています。

学校では自分独自の演奏方法と旧友のスノッブなヨーロッパ流との軋轢に苦しんでいました。
ある日メイェール教授がこの若い生徒の訪問を受けたとき、新聞紙に包まれた木製で手作りのパタピオのフルートを見て笑いを堪え切れませんでしたが、彼の演奏を聞くや彼に自宅での毎日の指導を申し出ました。

1902年になると学校内の独奏会で絶賛を博し他の都市での代役公演でも大好評でした。
ある公演の後リオ・ブランコ男爵が「何でも欲しいものを言ってごらん」と言うのに対し、「その男爵の帽子を頂きたい」と答えたそうです。

1903年にはもう一つの勲章が彼のものになります。
音楽学校主催のコンテストに上流階級婦人会が優勝者の為に銀のフルートを贈呈しました。
パタピオは再び優勝しました。
しかし贈呈式前にフルートが消えてしまう事件が起きました。
「エリートの為の大会で、貧乏な黒人が優勝してしまった」とスノッブな同級生達には耐えられなかったようです。

卒業後メイエール教授の推薦状を手にパタピオはサンパウロに向かいました。
しかし偏見の壁は厚く州立学校の教授職も結局失いました。
一方彼のコンサートの大成功に終わり、この成功を以って教授は彼の助手の席を申し出ましたが、逆にパタピオはこれを丁寧に断っています。
1905年にポタピオの才能を愛したメイェール教授が亡くなり、その後任は名声と実力では当然パタピオに譲られるべきだと思われますが教授の死の数時間後にはポタピオの同級生がこれに選ばれました。

1906年にはサンパウロで公演やフルートの指導と作曲活動をしていましたが、この時期アフォンソ・ペナ大統領の前で演奏をしています。しかし彼の夢はこの時代のすべての音楽家と同じくヨーロッパでの演奏と成功でした。

この夢を実現する為には資金が必要と考えたポタピオは演奏旅行を計画しました。
1907年3月14日にサンパウロを発ち南へ向かいました。
3月18日のパラナ州首都クリチバを皮切りに、各地で公演を続け、4月12日にはサンタカタリナ州都フロリアナポイリスに到着し、同月18日に最初の公演がプレスに発表されましたが、その後パタピオのインフルエンザ罹病の為公演の延期が発表されました。
結局1907年4月24日の深夜2時ジフテリアの為サンタカタリーナで、故郷からは遠く離れた地で、彼は死にました。

残された曲
Primeiro Amor
Zinha

 

 

参考:Dicionario Cravo Albin
ショローンとその時代