2016年4月1日

「ポルタチル音楽学校」 ルシアーナ・ハベーロ

 

O ensaio do portatil

Luciana Rabello

 

~ホウアネッチ法によるペトロブラス協賛「ブラジルの音楽家大全」プロジェクトのために寄稿されたエッセイ集より~

 

Luciana Rabello

 

はじめに

 
このルシアーナ・ハベーロのエッセイには、一種の青春小説のような趣きがあります。彼女やマウリシオ・カヒーリョ、また彼女の弟で早世した伝説的なギタリスト、ハファエル・ハベーロらが、若き日にどのようにしてショーロを学び、ポルタチル音楽学校を創立するに至ったか、その立志と奮闘の日々を垣間見る思いがしました。

このエッセイの翻訳とフォンフォンへの掲載を快諾してくれたルシアーナ・ハベーロと、「ブラジルの音楽家大全」の担当者マリア・ルイザ・クフォウリ両氏に感謝いたします。
 
尚、各章の表題は、本文には存在しませんが、理解しやすくする為、翻訳者の責任で付けました。

貝塚正美

May 2011

 
 
 

1 ホーダに通いだした頃
 
ショーロは、ブラジルに最も古くからある豊穣なインストルメンタル・ミュージックです。
そのリズム、ハーモニー、メロディの豊かさは演奏者に高いレベルのテクニックを要求しますから、ポピュラーの音楽家にとってショーロというジャンルは最良の「学校」と言えます。
 
この「学校」に学んだり、何らかの関わりを持ちながら技術を磨いた経験の無い音楽家、演奏家、作曲家の名を挙げるのはまず不可能でしょう。
 
raphaelviolao

例えば、ビラ・ロボス、ゲッハ・ペイシ、フランシスコ・ミニョーン、ピシンギーニャ、トム・ジョビン、バーデン・パウウェルらは、いずれもこのショーロという道を通ってきた人たちです。
 
このジャンルについてのまとまった知識も無いまま、私と弟のハファエル・ハベーロは、ずいぶん若いうちに、ただ情熱だけをもってショーロを始めました。
 
日曜の朝は決まって、498番のコスミ・ベーリョ/ペーニャ行きのバスに乗って、バンドリン奏者のジョエル・ナシメントの家のすぐ近く、フランシスコ・エネス通りにある小さなバー「サンタ・テレジーニャ」に行きました。そこで、ホーダ・デ・ショーロが午前10時頃から開かれていたからです。
 
ジョエルをはじめ、ジョイール(ジョエルの兄弟のギタリスト)、アベル・フェヘイラ、ゼ・ダ・ヴェーリャ、インディオ・ド・カヴァキーニョや、当時まだ名前を知られていなかったショロンたち、セウ・ベヘット、モチーニャ、ペトロニオ、カシポレらとそこで出会い、演奏を共にしました。
 
ホーダはいつもアベルかジョエルの家に場所を移して続き、お昼を済ませてから夕方に帰宅するのが習慣でした。
「サンタ・テレジーニャ」という音楽的な出会いの場で過ごした2年程の時間は、とても生産的で忘れ難く、学んだことも大きいと思います。
 

Abel Ferreira

Abel Ferreira

けれども、ホーダの回数が増えてこの集いが他の倉庫に移った後は同様のクオリティーを維持できなくなりました。
「サンタ・テレジーニャ」はアベル・フェイヘイラがつけた(ソバッコ・デ・コブラ 蛇の脇)という通称でパテントを取得し、移転しました。
 
しかし、そこはホーダのグループで溢れかえり、競い合って大音量で演奏し続ける騒々しい状態になってしまいました。
それはもはや生き生きとした音楽の場ではなく、ショーロの持つ微妙な味わいも失われてしまったのでした。
 
おまけに様々な新聞、雑誌、果てはテレビの「文化番組」にまで取り上げられ、結局、本物の演奏をしたい者、聴きたい者は、他のもっとましな場所を探さざるを得なくなりました。
 
 
2 先生を見つけた。
 
リオデジャネイロの北部、マンゲイラ(訳者注:有名なサンバチーム、その拠点の意)の近くに、ジャイミ・フローレンス、通称メイラの家がありました。
 

Meira

Meira

メイラは、バーデン・パウウェル、ハファエル・ハベーロ、マウリシオ・カヒーリョ、ジョアン・デ・アキノをはじめ、多くの名だたるギタリストを指導していて、私もハファエルと一緒に何度か、彼のレッスンを受けました
 
そこで彼にナイロン弦のカヴァキーニョをもらったのです(スチール弦だと、ギターソロが聞こえにくくなります)。
本当のところは、彼は私に楽器を(ギターからカヴァキーニョへ)替えさせたかったのでしょう。
 
元々の楽器だったギターの方では、ディレルマンド・ヘイスの「マゴアーダ」のソロ演奏を教わりました。
彼は、繰り返し一緒に弾きながら欠点を正し、良い指針を与えて、私の音楽的視野を広げてくれたのです。
この午後ぶっ通しの授業では雑談も交えて多の話を聞き、非常に大切なことを心に刻みました。
 
それは、楽器のテクニックにこだわるよりも、とにかく演奏を重ねることがより大きな成果をもたらすということ・・・私たちは13歳と14歳、メイラは60歳を過ぎる頃でした。
 

Carioquinhas

Carioquinhas

そんな授業の折に、ハファエルはマウリシオ・カヒーリョと出会い、すぐに友達になって、後年、私たちの最初のバンドである、オス・カリオキーニャスを結成することになります。
 
当時、演奏を覚えたくてうずうずしていた私たちは、幾つものホーダ・デ・ショーロに参加しました。
 
ソバッコやゴベルナドール島にあったジェキア・クラブ(女性は入場禁止でした!)だけでなく、アフォンソ・マシャード、デオ・ヒアン、アルヴァロ・カヒーリョ、チア・テレーザ、ジョナス・ド・カヴァキーニョ等、それぞれの家で行われるホーダにも入れてもらいました。
 
エルピジオの家にはジノやジョルジーニョ・ド・パンデイロ、ホナルド、ホジェリオ・ソウザの兄弟たちも来ていました。
 
ホーダでは、メイラ、カニョット、アルタミロ・カヒーリョ、アベル・フェヘイラ、コピーニャ、カニョット・ダ・パライバといった巨匠と一緒に演奏する機会にも恵まれました。
これらのホーダの経験を通して、どんな学校でよりも沢山の事を教わったと、今も常に思うのです。
 
このホーダ・デ・ショーロが、ベテランの演奏家にとっても真に幸福な時間であったのだと、後になって理解できました。
ショーロという音楽が与えてくれる喜びは、まさに、この週末の日常から解放された時間に、自分の楽器の演奏において終わりのない修練ができるホーダの場にこそあったのだと思います。
 
彼らの多くはプロの演奏者で、平日は歌手のバックを勤め、他のジャンルの曲を弾くわけですが、そこからは十分な満足を得ることはできません。
でもショーロを演奏すると、まるで母親の家にいるかのような充足を感じられたのです。
 
とは言っても、当時、ショーロだけで生きていくことは不可能でした。
きっと、私たちはショーロを専門に演奏するプロフェッショナルとして(非常に厳しいにせよ)挑戦し続けられる最初の世代に違いないと思います。

 

 

 3 大学とポピュラー音楽

 

70年代の終わり、私たちは入学試験を目前にしていました。
 
すでに音楽を職業にすることは決めていましたが、家族はより高度な学校教育を受けることを望んでいました。音楽の勉強をするにせよ、大学に行けと。
 
そこで私は、音楽の講座があり、ブラジル・シンフォニック・オーケストラへの登竜門だった国立リオデジャネイロ大学に進学しようとしましたが、すぐに深刻な問題が生じました。
 
筆記試験は合格したものの、面接で、楽器はカヴァキーニョですと答えた途端に、不合格になってしまったのです。
若かった私は、大学で音楽を学ぶにはたった二つの選択肢しかないことを、まだ理解できていませんでした。
 
つまり、クラシック音楽を専攻するか、あるいはポピュラー部門では、(留学して)バークリーでジャズを専攻するしかなかったのです。
そこにはブラジル音楽を学ぶという選択はありません。私たちが望む進路は無かったのです。
 

Roda de Choro

Roda de Choro

このことについては当時、ハファエルやジョエルと、何度も話し合いました。
他にも多くの演奏家たちが同じことを悩んでいたようで、例えば、ホベルト・ニャタリのように、希望と現実の大きなギャップを抱えながらも、取りあえず(進学はやめて)働き始める者もいました。
 
この時以来、私たちは「ブラジル音楽の大学を創設する」という夢を心に育むようになりました。
 
私の夢みる大学は、カヴァキーニョや他のポピュラー音楽の楽器を抱えて堂々と正面から入ることができます。
教育内容は、ショーロ、サンバ、マラカツ、バイオン、フレーボ、サンバ・デ・ホーダ、カボクリーニョ、コンガーダや、その他、ブラジル独自の豊かで複合性をもった多くの音楽ジャンルに及びます。
 
信じられないことですが、今日に至るまでブラジルの音楽大学では、これらの音楽を実習させることなく、演奏者を育成しているのです。
 
そのようなわけで、私たちは、巨匠たちと同じ道を歩むことになりました。
それは、プロフェッショナルでありつつ、演奏しながら学ぶという道です。
 
 
4 ギター少年の抗議

 

2000年の初め、ハファエルはすでに他界していましたが、私たちショーロの同世代のキャリアは25年を越えた頃でした。

Mauricio Carrilho

Mauricio Carrilho

あるギターを学ぶ少年に、次のように質問されました。
「もうホーダには全然行かないんですか?
かつて数多くのベテランから学んだあなたたちが、僕たち、若い者と一緒に演奏しない・・・いつも、あなたたちはホーダで覚えたと言ってるけど、取り残された僕たちはどうやって学んだらいいんですか?」
 
私にも、同じ問題を抱えた二人の子供がいました。
これら年少者は、修練するための環境はおろか、選択肢も無いという状態でした。
 
この年代でショーロのような音楽を知っている者の数は少なく、興味を持ったとしても、同好の士と知り合う機会はほとんどありません。ホーダという場が無くては、どうしようもないのです。
 
私とハファエルが、マウリシオ、アフォンソ・マシャード、パウリーニョ・ド・バンドリン、セルシーニョ・シルヴァ、ペドロ・アモリン、ホナルド・ソウザらと出会った時の喜びを思い返しました。彼らは皆、私たちの良きパートナーだったのです。
 
少年から抗議を受けた数日後、とあるバーで、シルレイ・デ・オランダが、自分の娘もフルートを学んでいるけれど、やはり環境や学ぶ方法に恵まれないという同様の状況を憂いていました。
ショーロやサンバが好きな少年少女は、同年の学友たちの中で疎外されているようでした。
 
その頃、フナルチ音楽教室の室長をしていたシルレイは、8月から11月の第2学期の間、毎週土曜の朝にそこでショーロのワークショップを開くことを提案しました。もちろん予算は無く報酬もゼロです。
でも、かつて私たちが演奏を学んだように、ホーダ・デ・ショーロをやることは、少年たちの請願であり必要性のあることでした。
 
様々な都市の音楽ワークショップで、聴衆を惹きつけ楽しませたあのホーダというかたちが求められるようになっていたのです。
 
マウリシオ・カヒーリョもまた、この提案に大賛成でやる気満々でした。
私たちは、早速マウリシオの父親のアルヴァロ・カヒーリョと、ペドロ・アモリン、セルシーニョ・シルヴァに声をかけました。
これで、カヴァキーニョ、ギター、フルート、バンドリン、パンデイロが揃った完全なバンド、ヘジオナル(regional)を組むことができます。
 
広告は一切しませんでしたが、口コミだけで、約60人の少年少女が登録に来ました。マウリシオは、メイラの教室を引き継いでいたこともあり、仲間うちでは最も教育について経験と資質を発揮しました。

私自身は、ひたすら(先輩を)見て実演しながら覚えたというだけですから、系統立てた教授法など考えも及ばないことでした。
 
 
5 ポルタチル・音楽学校

 

ワークショップが始まり、様々なヘジオナルが編成されると、少年少女たちは大いに刺激を受けたようです。彼らのホーダは上々の出来でした。
11月になって、フナルチ音楽教室の指導から離れたシルレイは、他でも同じ仕事を続けようとしていました。
そこで、彼女がコンタクトしたのがリオデジャネイロ連邦大学(UFRJ)音楽部門の理事であるジョアン・ギレルメ・リッペルです。
 
ジョアンは私たちを、UFRJでこれまでのような授業を続けるようにと招聘してくれました。
皮肉にも80年代初めに、私が入学できなかった大学です。
 
マウリシオは感動し、より活発なワークショップのために考えていたことを具体化すべく動き始めました。
まず教材を用意し、他の音楽家も召集して新しい楽器と音楽理論の授業ができるようにしました。
 
フナルチ音楽教室では、5人の教師と60人の生徒という規模でしたが、UFRJでは1年目は、8人の教師と120人余の生徒、更に2年目は12人と200人という具合に大きくなっていきました。
 
すると、フナルチ音楽教室の頃から土曜の朝によく見学に来ていたエルミニオ・ベロ・デ・カルヴァーリョが、私たちに、こうけしかけるようになりました。
「ここでやっていることをもっとプロ化しろよ。生徒の数も増やして、ワークショップを色々な都市に拡大して開催したらどうだ」
 
ブラジル音楽界で長いキャリアのあったエルミニオは、アポスチラス・ソノラス(音楽講義ノート)制作の企画を進めているところでしたが、それはまだ初心者向けの教材に過ぎませんでした。(私たちの活動は彼自身のプロジェクトと重なり合うものだったのでしょう。)
 
彼は私たちのワークショップに、ポルタチル音楽学校(Escola Portatil de Musica 「移動音楽学校」 以後EPMと表記)という新たな名を与え、後に税法上の優遇措置を受けられるようにしました。

おまけに企業がスポンサーを申し出てくれることになったのです。
 
 
6 EPMの発展

 

この頃、UFRJから割り当てられた教室では、もはや生徒と教師の定員を収容できなくなっていました。
そこでグロリア地区にある一軒の家を借り上げ、そこに18人の教師と400人の生徒が入るようになりました。
 
ワークショップの創設者たちの後にやってきた新しい演奏家兼教師は、UniRio(リオ大学)で指揮科や作曲科などの修士課程を終了している、あらゆる世代にわたる人たちでした。
 
新しい世代の参入によって、より進歩的で、保守性の少ない大学教育の在り方を知ったことは幸運だったと思います。
EPMの教師たち同士、互いの経験や知識を敬意をもって交換し合うことで、私たちの活動はより豊かなものになっていったのです。

 
グロリア地区の教室には、様々な音楽仲間がやって来ましたが、その中にはルイス・オタビオ・ブラガ、ホベルト・ニャタリ、ヒカルド・ヴェントーラらもいました。
 
彼らはいずれも、今やリオデジャネイロ州で音楽の最高学府となった、リオ大学の教授たちです。
ルイスは既にブラジル国内で様々なワークショップを開催していましたし、ホベルトは、クリチバでブラジル音楽学院を設立し、大学におけるポピュラー音楽の導入に力を注いでいました。
 
また、ヒカルドはギター教師として、従来の古臭い保守的な大学教育と闘っていました。
そして2005年8月、これらの友人たちも巻き込み、EPMをリオ大学構内に移設する運びとなったのです。
さらにペトロブラスの助成も受けて、より多くの生徒を受け入れることが出来るようになりました。
 
生徒募集には、1300人以上の申し込みがありました。
ここから600人を選考し、教師陣も23人に増員しました。
 
一方、私たちはEPMの正式な窓口として、ショーロ協会(Instituto Casa do Choro)を設立しました。
以後、EPMの移動ワークショップは様々な都市へ活動の幅を広げていきました。
エルミリオがこの学校に「ポルタチル(移動式の)」と名付けて企図したことがその通りになっていったのです。
 
また、2004年から、ナショナル ショーロ フェスティバルを開催し、そこでは、約250人の生徒を集めた8日間の集中講座をはじめ、ショーや講演会、そしてもちろん沢山のホーダ・デ・ショーロも開かれました。
 
このフェスティバルが開催されるたびに、ショーロを学ぼうとする海外のプロ演奏家の数が増えてきています。これはショーロという音楽のもつ豊饒性が国内外を問わず多くの人々を惹きつけていることの証しでしょう。

 
 
7 「大学」! そして夢はまだ続く

 

リオ大学(UniRio)で行われる授業を、我々は(他の都市のワークショップと区別して)「核」と呼んでいますが、その科目(および講師陣)は以下の通りです。
 
ギター(Mauricio Carrilho, Luis Flavio Alcofra, Anna Paes, Paulo Aragao)
フルート(Alvaro Carrilho, Antonio Rocha, 熊本尚美)
カヴァキーニョ(Luciana Rabello, Jayme Vignoli)
バンドリン(Pedro Amorim)
パンデイロ(Celsinho Silva, Jorginho do Pandeiro)
パーカッション(Oscar Bolao)
ピアノとアコーデオン(Cristovao Bastos)
サキソフォン(Rui Alvim)
クラリネット(Pedro Paes)
チューバとトロンボーン(Thiago Osorio)
トランペット(Nailson Simoes)
ボーカル(Amelia Rabello)
 
上記の講師の指導によるグループ実技の他に
音楽理論と解釈(Pedro Aragao)
和声学(Bia Paes Leme, Marcilio Lopes)
楽譜のデジタル化技術(Ricardo Gilly)
作曲法(Mauricio Carrilho)
といった科目もあります。
 
並行して創設されたエルミニオ・ベロ・デ・カルヴァーリョ・データ図書館には、膨大な数の音源やビデオが収蔵され、これまで省みられなかった実に豊かな音楽的産物に生徒たちがアクセスできるようになりました。
 
ここでは、二つの小さな管弦楽団も誕生しました。一つは、弦楽器とフルート他木管で編成された室内楽スタイルの「カメラッタ・ポルタチル」。もう一つは、金管、ピアノ、ベース、パーカッションによるガフィエラ・スタイルのオーケストラ「フリオーザ・ポルタチル」です。
 
両楽団とも講師、生徒合せておよそ30人程度の編成で、レパートリーとしては、ハダメス・ニャタリやゲッハ・ペイシの作品ならびにそのアレンジ曲。
また、マウリシオ・カヒーリョ、クリストヴァン・バストス、ペドロ・アラゴン、ジャイミ・ビニョーリ、パウロ・アラゴン等、同時代の作曲家の曲を演奏しています。
 
毎週土曜日、12時から13時の間、UniRioのキャンパス内に全生徒グループが集合し、大バンドを形成して練習が繰り広げられます。この全体練習は一般に公開されていて、今では町の重要な音楽イベントとなっています。
 
2006年には、ショーロ協会とUniRioとの間に協定が結ばれ、EPMの授業がUniRioの卒業単位として認められるようになりました。
EPMの最も重要でユニークな業績は、生徒たちが、25年前後の業界でのキャリアをもつプロの音楽家から実践的に演奏を学びつつ、同時に音楽理論を学習できる場を実現したということです。
 
こうして、ブラジル音楽の専門大学を創るという昔からの夢の実現のために、私たちなりにですが、貢献できたと思います。
 
この先にある、さらに大きな課題とは、ポピュラー音楽教育を体系化し、その価値を高め、私たちの音楽人生から得た経験知の上に大学課程の知識を加えること。
 
そして、一世紀に及ぶ歴史の中で幾多の音楽家たちが磨き上げてきたショーロのクオリティーを損なうことなく、EPMが「ポルタチル(移動学校)」でなく「本物の(不動の)」ブラジル音楽学校に生まれ変わることだと信じています。

 

ルシアーナ・ハベーロ

2007年 リオデジャネイロにて

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