2018年1月27日

ポルタチル音楽学校

  O ensaio do portatli

Luciana Rabello

ルシアナ・ラベーロ「ポルタチル音楽学校」

 

 

 

(ホウアネッチ法に基ずくペトロブラス協賛の「エンサイクロペディア:ブラジルの作曲家」プロジェクト)

 

はじめに:このルシアーナ・ラベーロのエッセイを初めて呼んだ時、一種の青春小説のような印象を持ちました。彼女やマウリシオ・カリーリョ(Mauricio Carrilho)、また彼女の弟で早世した伝説的なギタリスト、ラファエル・ラベーロ(Raphael Rabello)達がどのようにしてショーロを学び、音楽大学を創立するようになったかが短い文章の中に表されています。
この翻訳と掲載を快く承諾してくれたルシアーナ・ラベーロと「ブラジルの作曲家」サイトの担当者マリア・ルイザ・クフォウリ(Maria Luiza Kfouri)両氏に感謝いたします。

貝塚正美

 

 

ポルタチル音楽学校

ショーロはブラジルのもっとも豊潤で古典に属するインストメンタル・ミュージックです。この豊かなリズム、ハーモニー、メロディを奏でるにはかなりのテクニックが要求され、ブラジル・ポピュラー音楽界にとっては最良の学校です。
ですので、このショーロというジャンルを基礎にしたり、影響を受けたり、その技術を磨いたりすることが無かったという優れた音楽家、演奏家、作曲家の名を上げるのは不可能といえるでしょう。
例えば、ヴィラ=ロボス(Villa=Lobos)、ゲッラ・ペイシ(Guerra Peixe)、フランシスコ・ミニョーン(Francisco Mignone)、ピシンギーニャ(Pixinguinha)、トム・ジョビン(Tom Jobin)、バーデン・パウウェル(Baden Powell)等はこのショーロという道を通ってきた人達です。

まだショーロについて系統だった考えも無く、私と弟のラファエル・ラベーロは随分若い内にただ情熱だけをもってショーロを始めました。
毎日曜日498番のバスにのりました。
このコスミ・ヴェーリョ/ペーニャ(Cosme Velho/Penha)行きのバスは私達の家からジョエル・ナシメント(Joel Nascimeto)の家を結んでいました。
そしてこのバンドリン奏者の家の近くのフランシスコ・エネス通り(Rua Francisco Enes)にあった小さなバー、サンタ・テレーザジーニャ(Santa Terezinha)ではホーダ・デ・ショーロが開かれていまいました。

ホーダは朝の10時頃日曜のお昼が始まる前に始まります。
私達はそこでジョエル、ジョイール(ジョエルの兄弟、Joir)、アベル・フェレイラ(Abel Ferreira)、ゼ・ダ・ヴェーリャ(Ze da Velha)、インディオ・ド・カヴァキーニョ(Indio do Cavaquinho)や他の名前をまだ知られていなかったショローン達、セウ・ベレット(Seu Berreto)、モチーニャ(Motinha)、ペトロニオ(Petronio)、カシポレ(Cacipore)と出会いました。

このホーダはいつもアベルかジョエルの家で終わりました。お昼をそこで済ませ家には午後晩く帰るのが習慣でした。

このサンタ・テレジーナでミュージシャンに会っていたのは2-3年続き、そこでの学んだものは非常に大きく忘れがたいものになりました。しかしホーダの回数が増えるにつれ、この集いは他の倉庫に移りました。
アベル・フェレイラがSovaco de Cobra(ソバッコ・デ・コブラ 蛇の脇)とあだ名をつけたバー、サンタ・テレジーニャはパテントとして売られ他に移りましたが、そこでは雑音がものすごくミュージシャン達はボリュームを目一杯上げなくては為らず、また音楽のダイナミズムをもたらすスペースも無く、ショーロの持つ繊細さは失われていきました。
様々な新聞、雑誌、果はテレビの「文化番組」までに取り上げられ、結局本当に演奏したい者、聴きたい者にとって他の場所を探すしか方法はなくなりました。

リオデジャネイロの北部地域、マンゲイラ(Mangueira有名なサンバチーム(貝塚注))の近くにはジャイミ・フローレンス(Jayme Florence)の家がありました。
あだ名のメイラ(Meira)の方が有名でありバーデン・パウウェル、ラファエル・ラベーロ、マウリシオ・カリーリョ、ジョアン・デ・アキノ(Joao de Aquino)や他の有名なギター演奏者の先生でもあります。
私はラファエルと一緒に何回か彼の授業に行きました。
メイラは私にナイロン弦のカヴァキーニョを呉れました。スチール弦ではギターソロが目立たなくなってしまうからです。
本当のところは彼は私に楽器を取り替えてもらいたかったのだと思います。私の最初の楽器であるギターではジレルマンド・レイス(Dilermando Reis)のマゴアーダ(Magoada)でのソロ演奏を教えてくれました。
何回も一緒に弾き彼は忍耐強く道を指し示し私の音楽に対する地平線を広げてくれました。
この午後一杯の授業では会話も弾み非常に貴重な話を聞きました。

そこで重要なことは楽器を征服することでなく一つになることだと分かり始めました。
私たちは13歳と14歳でメイラは60過ぎでした。

そこである午後ラファエルはマウリシオ・カリーリョと出会いました。彼とはすぐに友達になり、後年私たちの最初のバンドであるオス・カリオキーニャス(Os Carioquinhas)を結成することになります。

演奏を習得したいばかりの若き私達は幾つものホーダ・デ・ショーロに参加しました。ソバッコやゴベルナ島にあったジェキア・クラブ(女性が入場禁止であった!)だけでなく、ボタ・フォゴ(Bota Fogo)のアフォンソ・マシャード(Afonso Machado)の家やジャカレパグア(Jacarepagua)に在ったデオ・リアン(deo Rian)の家、アルバロ・カリーリョAlvaro Carrilho)の家、ペーニャ(Penha)に在るチア・テレーザ(Tia Tereza)の家、ニテロイ(Niteroi)ではジョナス・ド・カヴァキーニョ(Jopnas do Cavaquinho)、エルピジオ(S. Elpidop)の家ではジノ(Dino)その他ジョルジーニョ・ド・パンデイロ(Jordinho do Pandeiro)、ロナルド(Ronaldo)、ロジェリオ・ソウザ(Rogeiro Souza)と兄弟たちがいました。

また巨匠たちとも演奏しました。アルタミロ・カリーリョ(Altamiro Carrilho)、アベル・フェヘイラ(Abel Ferreira)、コピーニャ(Copinha)、カニョット・ダ・パライバ(Canhoto da Paraiba)等でした。
これらのホーダでの経験はどんな学校よりも、沢山の事を学んだといつも思っています。

これは後になり理解できたことですが、このホーダ・デ・ショーロはベテランのミュージシャンにとって喜びの源泉であったのです。
ショーロはミュージシャンに喜びを与え、そして永遠にテクニックを磨く教材であったのであり、その為週末のホーダが彼達の大きな楽しみとなっていたのです。
彼らの内多くがプロの楽器演奏者で平日は歌手のバックを勤め、他のジャンルの曲を弾かねばなりません。
それは喜びも満足も与えるものではありません。
ショーロを演奏することはまるで母親の家にいるかのように感じられたのです。しかし当時ショーロだけを弾いて生きていくことは不可能でした。
恐らく私達が厳しいにせよショーロだけを弾くプロフェッショナルとして挑戦し続けられる最初の世代であると確信します。

70年代の終わり私達は大学受験の直前でした。
何を職業とするかは既に定まっていました。しかし家族は大学教育を受けることを望んでいました。音楽の勉強しかも大学で。
私は当時音楽入門講座がありブラジル・シンフォニック・オーケストラ(Orquestra Sinfonica Brasileira)への道が開いている国立リオデジャネイロ大学(UFRJ)の入学を考えましたが直ぐにシリアスな問題が発生しました。
筆記試験は合格したのですが面接で楽器はカヴァキーニョと答えた途端に不合格になったのです。
ブラジル人が大学で音楽を専攻するにはたった二つの道しかないことを理解するには若すぎたのです。
一つは古典クラシックで、ポピュラーミュージックはバークレイでジャズを選ぶしかなかったのです。ブラジルポピュラーミュージックを学ぶという選択はありません。私が望む場所は無かったのです。

当時このことをラファエルとジョエルとは何回も話しました。
多くのほかのミュージシャンも同じことを考えていたようで、例えばロベルト・ニャタリ(Roberto Gnattali)なんかも結局この大きな隙間を埋める為にも働き始めることもあったようです。

ブラジル音楽を大学で取り上げるという夢を心のなかで育てていました。
そこではカヴァキーニョやほかのポピュラーミュージックの楽器を抱えていても学校の正面から入れ、授業はショーロ、サンバ、マラカツ(Maracatu)、バイオン(Baiao)、フレーヴォ(Frevo)、サンバ・デ・ホーダ(Samba de Roda)、カヴォクリーニョ(Cavoclinho)、コンガーダ(Congada)やその他ブラジルの混血の結果である豊かな音楽です。
信じられないことですが未だにブラジルの大学の音楽教育はこれら音楽を教えていないのです。

そんな訳で私達は巨匠たちが歩んだ道と同じ道を進まざるを得なくなりました。
それはプロフェッショナルでありながら演奏しつつ学ぶということです。
2000年の初頭、既にラファエルは亡くなっていましたが私達の経歴は25年を過ぎておりました。
その頃ギターを学んでいた一人の少年が私に次のような質問をしてきました。
「あなた達はもうホーダには行かないの? あなた達は昔ベテランに学んだのに、今はあなた達もいない。僕たちはどのように学んだらいいのだろうか? もう若い人たちとは演奏しないの?あなた達はホーダで学んだのに、我々はどうしたらよいの?」

私には二人の子供がいて同じ問題を抱えていました。これら年少者は環境も無く選択も無しという状態でした。この年代でこれら音楽を知っているものの数は少なく、知っているものでも同好を探すのは容易ではなかった。

ホーダ無しでどうしようというのか?

私とラファエルがマウリシオ、アフォンソ・マシャード、パウリーニョ・ド・バンドリン(Paulinho do Bandlim)、セルシーニョ・シルヴァ(Celsinho Silva)、ペドロ・アモリン(Pedro Amorim)達に出会い、我々の最初のバンドを組んだ頃どんなに楽しかったかを思い出しました。

ギター少年の抗議の数日後とあるバーでシルレイ・デ・オランダ(Cirley de Holanda)が「自分の娘もフルートを学んでいるけれど同じ状況で同じ問題環境も方法もない」と愚痴を言いました。
ショーロが好きでサンバが好きな少年少女の前には開かれた場所が無いようでした。
シルレイはその時フナルチ(Sala Funarte)音楽教室の経営者で丁度8月から11月の第2学期の毎週の土曜日の朝にショーロのワークショップを取り入れようとしていました。

あの頃演奏し学んだ通りにホーダ・デ・ショーロを開催することは少年達への問題解決になるし必要のあることだと分かっていても、実際のところ予算も無ければ報酬も期待できませんでした。
公衆を楽しませたホーダの実施は様々な都市の数多くの音楽教室でも求められていたものであったのです。

マウリシオ・カリーリョも同じテーブルにいました。
彼の顔にはやるべきだと書かれていました。
我々はマウリシオの父親のアヴァロ・カリーリョ(Avaro Carrilho)、ペドロ・アモリン、セルシーニョ・シルバを集めました。
これだと完全なバンド(regional)を組むことができます。カヴァキーニョ、ギター、フルート、バンドリン、そしてパンデイロ。
広告無しで完全に口コミで始めたのですが約60人の少年少女の申し込みを受けました。
メイラの後継者であるマウリシオが仲間では一番に教育や講義にに対する経験がありました。
私と言えば実地経験だけで組織だった教育をどのようにすればよいのかまったくアイデアもありませんでした。

ワークショップが始まりました。
様々なバンド(コンジュント)を編成しました。少年少女たちはものすごく刺激を受けたようです。彼たちの実地演奏はとても良くできました。

11月になりシルレイはフナルチ音楽教室を辞めたましたが同じような仕事を他で続けたいと考えていました。
ちょうどその頃リオデジャネイロ連邦大学音楽部門の理事であるジョアン・ギレルメ・リッペル(Joao Guilerme Ripper)とコンタクトがあり、彼の音楽学校で授業を続けてくれないかとのオファーを受けました。皮肉にも80年代初めに入学できなかった場所です。
マウリシオはこの話に乗り暖めていた考えを実現すべく動き始めました。
教材を用意し新しい楽器と音楽理論の授業を設けるため他のミュージシャンを招聘しました。
フナルチ音楽教室では5人のミュージシャンに60人の生徒でしたが、UFRJ(リオデジャネイロ連邦大学)での1年目には8人のミュージシャンに120人の生徒になり、2年目には12人と200人と増えました。

土曜日になるとフナルチ音楽教室によく訪ねてきたエルミニオ・ベロ・デ・カルヴァーリョ(Herminio bello de Carvalho)が現れ我々を唆し始めます。
曰く「仕事をプロ化しろ。生徒を増やせ。色々な都市で開催しろ。エトセトラ」

エルミニオはブラジル音楽界で長く働き、アポスチラス・ソノラス(音楽講座 Apostilas Sonoras)プロジェクトを立ち上げていました。(そのプロジェクトはまだ音楽の教材以上のものではありませんでした。)
彼により私達のワークショップはポルタチル音楽学校(Escola Portatil de Musica EPM 移動音楽学校)と名付けられました。そして後にこの学校は助成者に税務上の特典を認めら得るものとなって行きました。

段々とUFRJから割り当てられた教室では生徒と教授を割り振るのは不可能になってきました。そこでグロリア地区にある一軒の家を借り上げました。
そこでは18人のミュージシャンに400人の生徒と膨れ上がりました。
その後この生徒たちがポルタチルの創立者達の一人一人になっていく訳ですが、これら新しく入ったミュージシャン兼音楽教授達はUniRio(リオ大学)で指揮科、修士、作曲科を終了しており、様々な世代を含んでいました。
まったく新しいやり方で始めるに当たってより進歩的で保守性の少ないアカデミックな教授法に出会えたのは幸運でした。
ポルタチル音楽学校の教授間においてはこの開かれた志が教授たちがお互いの経験や知識を交換しあい、活動を更に豊かにしてくれました。

まだグロリアの家にいた頃、ルイス・オタヴィオ・ブラガ(Luis Otavio Braga)、ロベルト・ニャタリ、リカルド・ヴェントーラ(Ricardo Ventura)、そして今ではリオの音楽大学ではより重要な位置を占めているUniRioのすべての教授たちが訪ねて来ました。

ルイスは既にブラジル国内で様々なワークショップを開催し、ホベルトは、クリチバで音楽施設(Conservastorio Brasileiro de Musica)を組織化し、大学教育でのブラジル・ポピュラーミュージックの導入に力を入れており、リカルドはギター教師として古臭くて保守的なアカデミック教授法と戦っていました。

2005年8月これらの友人も巻き込んでポルタチル音楽学校をUniRio内に移設しました。またペトロブラスの助成を受けることが出来、これによりさらに多くの生徒に授業を受けさせられるようになりました。
生徒暮集には、1300人以上の申し込みがあり、ここから600人を選考し、教授も23人に増えました。

ショーロの家協会(Instituto Casa do Choro)を設立し、これをポルタチル音楽学校(EPM)の正式な窓口とし、EPMの活動の幅をエミリオがいみじくも「移動」(portatil)と名付けた通り他の都市にも広げました。

2004年からナショナル・ショーロ祭をも始め、そこで250人にもなる生徒が学べる8日間の集中講座や、ショー、パネル・ディスカッション、それに当然数々のホーダ・デ・ショーロも開かれました。
このフェスティバルは開催されるごとにショーロを学ぶ海外のプロが増えてきました。
これはショーロの豊饒性が国内外を問わず受け入れられる証明だと思います。

UniRioでの開かれる講座を「芯」と我々は呼んでいますが。ここでの授業内容は以下の通りです。

ギター(Mauricio Carrilho, Luis Flavio Alcofra, Anna Paes, Paulo Aragao)、フルート(Alvaro Carrilho, Antonio Rocha, 熊本尚美)、カヴァキーニョ(Luciana Rabello, Jayme Vignoli)、バンドリン(Pedro Amorim)、パンデイロ(Celsinho Silva, Jorginho do Pandeiro)、パーカッション(Oscar Bolao)、ピアノとアコーデオン(Cristovao Bastos)、サキソフォン(Rui Alvim)、クラリネット(Pedro Paes)、チューバとトロンボーン(Thiago Osorio)、トランペット(Nailson Simoes)、ボーカル(Amelia Rabello)、理論と解釈(Pedro Aragao)、ハーモニー(Bia Paes Leme, Marcilio Lopes)、スコアのデジタル方法(Ricardo Gilly)、作曲法(Mauricio Carrilho)。

その他これら授業を生かした様々な編成による実地課題も設けています。

また並行してエミリオ・ベロ・デ・カルヴァーリョ・メディア図書館を創設しました。これは、膨大な数の録音物、ビデオを集録しており、マスコミや写真等の音楽活動と並行する部門への入り口として活用されています。

また二つの楽団も結成されました。一つはカメラッタ・ポルタチル(Camerata Portatil)で弦楽器、フルート、木管の編成で室内楽スタイル。もう一つが金管、ピアノ、ベース、パーカッションのガフィエイラ・スタイルのオーケストラ編成です。

両楽団も教授生徒合せて平均30人程度の編成で、レパートリーはラダメス・ニャタリ(Radames Gnattali)、ゲッラ・ペイシの曲やオリジナル編曲から現代作曲家ではマウリシオ・カリーリョ、クリスタヴァン・バストス(Cristavao Bastos)、ペドロ・アラゴン(Pedro Aragao)、ジャイミ・ヴィニョーリ(Jayme Vignoli)、パウロ・アラゴン(Paulo Argao)等です。

毎週土曜日12時から13時の間UniRioの外庭のパティオで学校全体の生徒で編成された大バンドによる練習が繰り広げられます。この練習は公開であり町の音楽行事の一つとなっています。

2006年に協会はUniRioと協定を結び協会の授業がUniRioの卒業単位として認められるようになりました。EPMが実現した最も重要なことは平均25年間音楽業界の中で実地に学んできたプロフェッショナルに学ぶ上に理論上の後押しも得る機会があるということです。

大法螺でなく我々の真実としてブラジル音楽専門大学を創るという古い夢が実現できたのです。そして現在の我々の最大の課題とはポピュラー・ミュージック教育を組織化しシステム化しその価値を高め、世紀を超え沢山のミュージシャンが築いてきたショーロの品質を失うことなく、この我々の音楽を活かし続ける為にアカデミックな基礎を固め、本当のブラジル音楽専門学校として成り立つことであると信じています。

2007年 リオデジャネイロにて

マウリシオ・カリーリョ 「7弦ギター」

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