宇宙の創造と時間

宇宙の創造と時間 佐藤文隆著(というより講演と対談)

探していた渡辺教具製作所の星座早見盤をようやく手に入れた。
星座早見盤は星の地図である。誰だって未知の世界の地図を手に入れれば、探検に出かけたくなるだろう。それと同じだ。
星を見るには山に如くはない。早速車山高原のホテルを予約した。
新しき星座早見盤、図書館で借りてきた星の写真集、父親の形見の磁石、妻がバードウォッチングに使っていた双眼鏡等一式をバッグのポケットに入れ、安曇野経由で山道を二時間ばかり登ってホテル到着。
このホテルには「星を愛でるパッケージ」と云う素人には強い味方が付いている。夕食は酒抜き。当然だろう。20時、ダウンジャケットを着こんで外に出ると満月が光っている。明るい。夜なのに稜線がはっきりと見える。星見のパッケージは月見に変更され、宿泊客は並んで望遠鏡でクレーターを覗く。兎もしくは蟹は肉眼で見た。
二回戦は甲州の富士山麓河口湖を選んだ。無論、新月である。お昼は湖畔のベンチに腰掛けお握りを頬張りながら富士山を愛でる。天気予報に違わず富士山は頂上まで見えた。
しかし運はそこまでだった。夕食のレストランの窓から見える空が暗い。雲が張り出してきた。結局この夜も星は見えなかった。天気予報は半日だけ外れたことになる。しかし僕は恨まない。「だって仕方ないだろう」

ということで、星座早見盤のデビューはまだ飾られていない。

最初から星座と宇宙は同じジャンルだと分かっていた。星を見ていればどうしたって宇宙の果てと時間の始まりついて知りたくなる。
銀幕に写るスターの姿だけでなく、スターの私生活や舞台裏を知れば彼女たちをもっと愛せると思うのと同じだ。
手掛かりは一般相対性理論と量子論。
相対性理論はアインシュタイン。ニュートンのリンゴを拾ってきて切り開いてみせた話だから何となく見当は付く。
もう片方は量子論。こっちの方が難物。分からなさ過ぎて(何を分からなきゃいけないのかも分からない)今までは無視してきた。で、10冊近く集中して読んでみた。
量子論は粒々の話だという説明を見つけ「分かった!」と思った。
かと言って誰かに「量子論とは何か」を語れないのだから「何となく分かったような気になった」というべきか。

今も「星や星雲は頭蓋骨というプラネタリウムの内側に光っているだけ」という考えが拭いきれない。
プラネタリウムの椅子に座っている間はプラネタリウムの内側しか見られないのだ。これはシェークスピアのセリフにもあった(そうなのか? 出典が分からない)。
新発明の望遠鏡(ハッブル望遠鏡のこと)で宇宙を覗いても神は見つからない。いくら目を凝らしても神は居ない。ただ気配は残っている。まるで「量子論」だ。「そこに在るのに捕まえられない。」いつだって神は逃げるし、逃げ続けるのだ。

また、見つかった、
何が、
永遠が、
海と溶け合う太陽が。(ランボー)

地中海に沈んだ太陽を追いかけ(想像です)アフリカに渡ったランボーは砂漠の星空を見上げたはずだ。

Joaquim Callado

あれま、ランボー(1854-91)とジョアキン・カラッド(1848-80)はほぼ同じ時代に生き、同じ位の歳で死んだのか。
エチオピアとリオデジャネイロは経度が約75度の差。一日360度を75度で割って24時間かけるとほぼ5時間。
ランボーがアラックかなんかで酔っ払って砂漠のテントで眠る午前2時頃、リオは夜の9時。カラッドのフルートが流れ始める時間だ。二人はアルタイルを同時に見ていたのじゃないか、少なくとも見えていたはずだ。(南半球のリオでもアルタイルは見えるだろう?)

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