エルネスト・ナザレ

エルネスト・ナザレ
Ernesto Nazareth
1863 Rio de Janeiro, RJ -1934 Rio de Janeiro, RJ

ピアニスト兼作曲家。
個人的にはショーロを生んだ4人(他にはカラッド、シキーニャ、アナクレット)の祖の一人として崇めていて、また彼のブレジェイロが最初に好きになったショーロ曲であるし、このサイト名の「フォンフォン」はナザレの曲名から頂いているしと、ダブルならぬサブル(?)に贔屓しています。

リオデジャネイロのシダーデ・ノヴァ地区モッロ・ド・ピントで税関の仲介人の父と音楽好きの母の間に生まれました。
幼い頃から母親にピアノを習い、10歳で母親が亡くなった後はアマチュアのピアノ教師からピアノを習い続けました。
14歳で父親に捧げたポルカ-ルンドウの”Você bem sabe”に驚いた先生(エドアルド・マデイラ)は楽譜出版者アルツール・ナポレオンに紹介しました。この出版社はオウヴィドール通りにありました。
それ以来作曲したピアノ曲は200曲以上、その大半をブラジリアン・タンゴと称しています。

19世紀の後半から20世紀初頭、パリが文化の中心ながらもアメリカが台頭してきている時代に重なります。アメリカの流行がブラジルにも押し寄せてきました。ニューオーリンズ生まれで1869年リオで客死したピアニスト、ルイス・モロー・ゴットシャルクの曲や演奏もそんな文脈で語れそうです。スコット・ジョプリンにも似ているとも言われるエルネストの曲風、幼い頃何処かでゴットシャルクの曲をで聞いたのかも知れません。(詳しくはクラリネットの中川恭太氏の「世界のショーロ!」で)

当時の街場の音楽家の仕事は自作曲の楽譜販売と演奏が主なものです。エルネストも楽器店で模範演奏をしながらの楽譜を売っていました。
そんな仕事先の一つが上流階級の社交場であった映画館オデオン劇場のロビーでした。そうあの名曲「オデオン」のオデオンです。
ここではヴィラ=ロボス(Heitor Villa=Lobos)もチェリストとして働いていました。

オデオン劇場にまつわるもう一つの逸話が残っています。
1913年に出版されたポルカ”Ameno Resedá”についてです。
当時はまだサンバ誕生以前で各地区のランショ・カルナヴァレスコが今のエスコーラ・ド・サンバの役目を負っていました。この内の有名なランショがAmeno Resedá。ここの歌手だったナポレオン・デ・オリヴェイラの証言です。
「僕はオウヴィドール通りの郵便配達夫でした。当時ナザレはオデオン劇場でピアノを弾いて、それを遠くから聴くのが毎日の楽しみでした。ある日マエストロに近づいて僕のランショに曲を作ってくれないかと頼んでみました」
「君は誰だ?」
「小さなクラブのメンバーで、貧乏で、肉体労働者で、しかも黒人です」
「そのクラブの名前は?」
「アメノ・レゼダです」
「分かった」
「それから午後になると僕はスパイみたいに彼の後ろにくっついて離れませんでした。マエストロは僕を見ても何も言いません。そしてとうとうあの日がやってきたのです。マエストロはピアノの横にある小さな引き出しから楽譜を取り出し、約束の曲だよと言って渡してくれました。それがあの曲です」
ナポレオンはその足でクラブまで走り仲間のボンフィジリオ・デ・オリヴェイラに楽譜を見せたと語っています。

20世紀に入ると楽譜出版だけでなくレコードも出現しました。彼の演奏も何曲か残っています。

晩年、聴覚に問題が起き、また娘と妻を次々失う悲劇に見舞われて精神的な安定を欠くようになりリオ郊外の療養所に収容され、翌年亡くなりました。

*(注)エスコーラ・デ・サンバ出現以前(以後も)のカーニヴァルに参加するグループはランショの他にもコンドン、ソシエダーデ、ブロッコ、クラブ・カルナヴァレスコ等々ありますが、僕にはそれぞれの違いがどうなのかよく分かりません。(スミマセン)

Ernesto Nazareth 150 anos
Dicionario Cravo Albin

ショローンとその時代

2019Aug.09


*アイキャッチ画像はピアニスト伊藤祥子さんのアルバム「リオのジョップリン&ナザレ」(Joplin e Nazareth no Rio de Janeiro)です。