2017年7月1日

ジョアキン・カラード

Joaquim Callado
1848(Rio de Janeiro)-1880(Rio de Janeiro)


「ショーロの父」と呼ばれるジョアキン・カラードの人生は32年と短いものでした。
ジョアキン・カラードの経歴を辿っその時々を彼がどう感じながら生きていたのか知ることはできないにしても、彼の残した音楽そしてショーロというスタイルは確かに我々の手元に残っています。
1936年に出版された「オ・ショーロ」(アニマル著)では数々のショローンの中で真っ先にカラッドの名を挙げています。

ジョアキン・カラードを語る上で1830年生まれの二人の人物の名前を欠かすことはできません。マチュー・アンドレ・レイシェ(Mathieu-Andre Reichert) とエンリッキ・メスキータ(Henrique Alves de Mesquita)です。

“O Choro” 1936

レイシェはベルギー人。ブリュッセルの音楽院で学びヨーロッパで有名なフルート奏者でした。当時のブラジル王ペドロ二世に招かれて1859年ブラジル・リオデジャネイロに渡り、そのままか後に留まり1880年に亡くなっています。フルートの新しいシステム、ベーム式(Boehm system)の紹介者としても知られています。彼のリオでの演奏会活動やポルカの作曲がカラードに直接、間接的な影響を与えたことはほぼ間違いありません。1873年にカラードはレイシェの為にコンサートを開催しています。

エンリッキ・メスキータはブラジル人。ブラジル独自の音楽を作ろうと苦闘した最初のランナーの一人でリオ音楽院から初めてパリへ渡った国費留学生でした。カラードは8歳頃からフランス留学前のメスキータにフルートの個人レッスンを受け、また後年和声、作曲法、指揮を習っています。

カラードはトランペット奏者で指揮者でもあった父親のもとに生まれました。家にはリオの町のミュージシャンたちの出入りも多く後のピシンギーニャと同じような環境で育ちました。65年、シキーニャ・ゴンザーガと出会い、69年に彼女に捧げた曲 “Querida Por Todos”を発表しています。

71年にリオ音楽院にフルートで入学、79年には同音楽院の三代目のフルート教授に就任し、同年王室より薔薇勲章を受けました。(この年、音楽院の教授は全て叙勲されましたが、どういうわけかエンヒッキ・メスキータだけは外されています。)
その傍ら、あるいはこちらが本来の姿であるのかカラードはコンジュントを組んで一般の家庭で開かれるダンス・パーティー、洗礼の祝い、結婚式、誕生祝いといった席に喜んで出向き、そこの主人に記念の曲を頼まれれば即座にその場にあった紙に譜面を書き込んで演奏したと伝えられています。即興曲のリズムはポルカを主としてワルツ、タンゴ、ルンドゥ等々様々でした。

このバンド仲間とはヴィリアット・シルバ(Viriato Figueira da Silva)、 イスマエル・コレイア(Ismael Correia)、レキーニョ(Lequinho)といった面々です。
因みに教え子で且つ音楽院の同僚でもあったフルーティスタ兼サキソフォニスタのヴィリアット・シルバはジョアキンの死の3年後に同じ歳の32才で亡くなり、ジョアキンの隣に埋葬されています。(実際は後にカラードの墓所をヴィリアットの隣に動かしたのですが。)

初期のショーロの基本的な編成はフルート、カバキーニョそれに2本のギターで、これはカラードの作ったコンジュント ”Choro Carioca”の編成に由来します。

ところでショーロというジャンルの音楽が何故「”choro”ショーロ」と呼ばれるようになったのかについてはいくつかの説があります。
一般的には”chorar”(泣く)から生まれた名称だと言われます。これに対するのは英語の”chorus”、ラテン語の”coro”、即ちコーラス団(遡れば、ギリシャ悲劇で使われる小合唱団コロス)を語源とする説。この他にも農場の奴隷黒人のお祭り”xolo”からという説や、当時の有名だったインストルメンタル・バンド”Os Chorameleiros”が語源であるという説もあります。(個人的にはショーロを聞いてchorarしたくなる感じはあまりありません)

いずれにせよ1800年代後半にショーロが”choro”という言葉で呼ばれていたことは事実で、カラードのコンジュント”Choro Carioca”は1870年に結成されました。
とは言え、リオの都市音楽であったショーロがブラジル人全体のものになるのは、1920年代以降ピシンギーニャの登場を待たなくてはなりません。

現代カラードを巡ってはショーロを確立したのだから「ショーロの父」と呼ぶべきだ、或いはショーロ演奏家の中心的存在であったことから「ショーロ・ミュージシャンの父」こそ相応しいなどと評論家や歴史家、民俗学者の間では論争があるようです。

天性のフルートの資質と名声、良き先達と仲間に恵まれた人生はとても幸福そうに思われます。

当時の音楽家として最高に名誉ある職に就き、大衆音楽家としても評価され、王立劇場でも演奏を披露したカラードでしたが、1880年3月20日ヘイシェの死の5日後流行性脳炎で呆気なく世を去りました。葬式は伝染病の罹患の恐れから参列者も少なく寂しいものであったと記録されています。

彼の死から9年後ブラジルは王制から共和制へと大きな時代の転換期を迎えます。カラードの逸話から見えてくる人生には丁度その100年前に時代を駆け抜けたモーツアルトを彷彿とさせるものがあります。

 

 

2012 December 06

2017 July 01 wp

 

ショローンとその時代

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