2017年7月9日

オターヴィオ・ドゥットラ

Otávio Dutra
(1884 Porto Alegre-1937 Porto Alegre)

 

オターヴィオはブラジル最南端のリオグランデドスル州の音楽家です。
リオグランデドスルはウルグアイやアルゼンチンと国境を接することもあり、歴史や風土が他の州とは多少色合いの違う独特の文化があります。ブラジル共和制(1889年)以降の大統領で最も毀誉褒貶が激しいのは、ジェトゥリオ・ヴァルガス(1882-1954)でしょう。この大統領もリオグランデドスル生まれ、オターヴィオの2才上です。
一生の殆どをポルトアレグレで過ごしたオタービオにとってガウショ(リオグランデドスル生まれの呼称)であることが人生に大きな意味を与えていましたようです。
20世紀初頭のポルトアレグレで音楽の第一人者に数えられ、またガウショに初めてバンドリンとギターをもたらしたとされています。
15才で「ワルツ一番」を作曲し、1904年までに数曲のワルツ、ポルカを作り、1910年に後年ラダメス・ニャタリ(1906-1988)も学んだポルトアレグレ音楽学校で対位法と和声を習得し、また同時に自らの音楽教室を組織し運営していました。

13年この音楽教室の優秀な生徒とグループ・テロール・ドス・ファコンエス(Terror dos Facões)を結成し、リオデジャネイロのオデオンから数曲のレコード録音をしました。エンリッキ・カゼス氏によれば、これらは10年代に残されたレコードの内でも秀でたものの一つだとの事です。
このファコンエス(Facões)とは当時の軽口で「下手な演奏家たち」を意味する蔑称でした。これは、臆病な生徒らに人前で演奏する度胸を持たせる為にあえて命名したようです。

1917年オターヴィオはポルトアレグレでカリス都市鉄道会社の新型路面電車を見て、代表曲の一つ”Choro Composto Em Um Bonde”(路面電車の中のショーロ)を作曲しました。

生涯500にも及ぶ曲をつくりましたが著作権がまだ弱い時代でした。1915年にリオデジャネイロの国立図書館著作権担当(Seção de Direitos Autorais da Biblioteca Nacional)に直接出向いてエジソン出版に譲渡されていた30曲の保護を求めています。

20年代にはポルトアレグレのカーニバル・第一ブロックの指導者になり、21年のカーニバルで自分のチームTigreとライバルチームBatutasが交差点で出会った際に互いに相手チームを茶化して即興でサンバを歌い合ったという逸話が残っています。同じような話はリオのノエル・ローザにもありますので時代の流行だったのかもしれません。

ボヘミア的生活、友人への援助、その一方で自分の家を持つことにこだわり続けるアンビバレントな性格に加え、著作権自体が不確かな当時の状況から経済的にも苦しかったようです。
「路面電車の中で作られたショーロ」から丁度20年後の37年にポルトアレグレで亡くなりました。

 

参考:Dicionario do Cravo Albin, Musica Popular Brasileira
ACARI Records (choro carioca musica do Brasil)
ポルトアレグレ市ホームページ

 

ショローンとその時代

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