2017年7月14日

ピシンギーニャ

 Pixinguinha (1897-1973)

本名:Alferdo da Rocha Viana Filho

 

人柄も、作曲者としても、フルートあるいはサックスプレイヤーとしても、皆に愛されたピシンギーニャ。
19世紀の終わりにAlfredo da Rocha Viana と Maria da Conceicaoの間に(14男!!として)リオデジャネイロで生まれました。誕生日の4月23日はショーロの日に制定されています。

少年期からその才能を見出されバンド”Oito Batutas” (8本の指揮棒)を結成しパリ公演を行ったり、黒人バンドとしては初めてリオリオデジャネロ・セントラル劇場で演奏したりし成功を収めました。

日本でのホーダ・デ・ショーロでもその演奏曲の3分の1近くが彼の曲です。
しかし若い頃の成功がプレッシャーになったのか中年期に差し掛かる頃には金銭に窮していました。これに救いの手を差し伸べたのがベネジット・ラセルダ。交換に(多分)ピシンギーニャの多くの曲にラセルダの名前がクレジットされています。
ラセルダには商業的な才能があったのでしょう。ラセルダのフルートとサックスに持ち替えたピシンギーニャの組み合わせでの演奏旅行とレコード製作は大成功を収めました。
ラセルダがどこまで企図したかは別にせよ、我々の手元には多くの曲が残され、またピシンギーニャの対位法的な奏法がジノ・7・コルダス以降に続く演奏家たちに大きな影響を与えました。

1964年に心臓発作で20日の間入院を余儀なくされた時の曲は「Fala Baixinho 静かにしゃべってくれ」、「Mais Quinze Dias もう後15日」、「No Elevador エレベーターの中で」、「Mais Tres Dias もう後三日」、「Vou Para Casa 家に帰る」など病室での様子が目に見えるようで切実な可笑し味があります。

“Proezas de Solon”(ソロンの奇跡)も不思議な曲名です。「ソロン博士は行きつけの歯医者であり、ピシンギーニャが何日も苦しんだ歯痛を一日で治してくれたことをオマージュしこの曲名を付けた」との逸話を見かけました。

奴隷制の終了と産業革命、ブラジルのアイデンティティの探求、ラジオ放送(マスコミニケーションの始まり)、ジャズの影響、レコード技術の進歩とマイクロフォンの発明等、ピシンギーニャが生きた時代も興味深いし、それにピシンギーニャ自身がブラジルポピュラーミュージック界に与えた影響は余りにも大きくて、ピシンギーニャとその時代については本一冊位(分厚い!)書かなければならないだろうし、僕にはそんなのとても手に負えないのでここで筆をおきます。

2017 Oct.18 wp

参考:Dicionario do Cravo Albin, Musica Popular Brasileira
Choromusic

 

 

ショローンとその時代

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