アナクレット・デ・メデイロス

アナクレット・デ・メデイロス
Anacleto Augusto de Medeiros
(1866-1907)

消防隊楽団(Banda do Corpo de Bombeiros)で有名なアナクレット・デ・メロデイロス、 リオデジャネイロとニテロイ市に挟まれたグアナバーナ湾に浮かぶ小さな島パケッタ島で生まれ、そしてそこで亡くなっています。
アナクレット(Anacleto)と言う名前は聖アナクレット(第3代カトリック教皇AD76-88)から採られ、彼の母親は解放奴隷でした。

当時の軍事施設は労働者の娯楽の一つとして音楽隊を運営していました。アナクレットは9歳でリオデジャネイロ軍需工場内学校に入学し、学校付属の音楽隊でピッコロを習います。

1884年18歳になると生活のために政府の公報局に就職しタイプライターを修得し、同時にリオデジャネイロ音楽学校(現在の国立リオデジャネイロ大学音楽学部)入学しました。
同僚にフランシスコ・ブラガ(ブラジル国旗”Hino a Bandeira”の作者)がおり、教授陣にはショーロの祖と呼ばれるジョアキン・カラッドの他、ジョアキン・ジアニーニ、 カルロス・デ・メスキータ、デメトリオ・リベロ等がいました。

この公報局在職中に、少年達を集めゲッチンバーグ音楽クラブを結成しています。

86年にアナクレットはクラリネット演奏者として公式に認定され、1887年音楽学校を卒業します。
この頃には様々な吹奏楽器をマスターしていましたが一番得意なものはソプラノ・サックスでした。

在学中から故郷パケッタ島のバンドを集め、 パケッタ島民リクリエーションクラブと言う楽隊を創設し、楽隊が演奏する教会のお祭りやパーティーの為に作曲をしていましたが、卒業の年にはそれとは別にワルツ、ポルカ、ショティッシュを作曲しています。

アナクレットの功績は、ヨーロッパ由来のこれらをブラジル化したことであり、この為後年、彼の曲は歌詞を付けられ名前を変えて普及しました。

例えば「3人の異邦人(Tres estrelinhas)」が「あなたは誰(O que tu es)」、「いとおしい気持ち(Terna saudade)」が「一回のキス(Por um beijo)」、「ベンジーニョ(Benzinho)」が「秘めた思い(Sentimento oculto)」と言う具合です。

この内ショッチのイアラ(Iara)は 後にカツロ・ダ・パイション・セアレンセにより歌詞を付けられ、名前を変え「心を乱して」(Rasga o Coracao)として出版され、この詩からインスピレーションを得てヴィラ=ロボスは「ショーロス第10番(Choros Numero 10 “Rasga o Coracao” 合奏付き)」を作曲しています。

この後もアナクレットは数多くのバンドを編成しました。バング繊維工場楽団( Fabrica de Tecidos Bangu)、おサル繊維工場楽団(Fabrica de Tecidos de Macacos)、ピエダージ楽団(Piedade)等です。
1896年には、今でもよく演奏されるマーチ、ジュビレウ(Jubileu)をリオデジャネイロでの国際博覧会の為に作曲しています。

この頃には作曲家としてまた指揮者としての名声は充分広まっており、この年にリオデジャネイロ消防隊楽団の運営を任されました。
この楽団はアナクレットの指導により大きな成功を収め、ブラジルでは初期のレコード録音をしています。

「良き時代のMPB」(”Panorama da MPB na Belle Epoque” by Ary Vasconcelos)によると、当時90曲がリストにあり、また49曲がブラジルにおける最初のレコード会社エジソンのカタログに載っているとのことです。

1902年アナクレットは共和国陸軍の上級中尉に任命されました。

作曲するにあたり、鳥の声、工場の汽笛、流しの角笛、教会の鐘の音、自動車の警笛、工場の交代の笛、すべてを利用し、指揮においては、渾身の力を篭めて、厳格に楽団員を指導していたと、後に「オ・ショーロ」の作者アニマルが書き残しています。

そしてこの楽団からは、カラモーラ、カゼミロ・ロッシャ、イリネウ・デ・アルメイダ(ピシンギーニャの家に下宿し、ピシンギーニャの最初の先生)等が巣立っています。

ここから若干の推測を交えます。

1870年前後ショローンはダンスパーティーに呼ばれてもお金を貰っていなかったと、”Almanaque do Choro”(ショーロの倉庫)に書かれています。
ミュージシャンたちは、ダンスホール裏の食堂で飲み食いするのが報酬であり、無報酬であることがむしろ意気込みであったようです。
一方、同じ本によると、1896年のアナクレットによる消防隊楽団の成功により、各地に様々な楽団が出来、それら楽団がプレイヤーの殆ど唯一の学校であり、また同時に生活の糧を得る方法だったとあります。
これにはアナクレットの曲が演奏できたこと、初期のレコード録音技術がまだ低く大音響を発する音源が必要であったことも楽団の需要を呼び起こしたようです。

想像するに、クラシック演奏家や作曲者を除いて、ポピュラー音楽の演奏家のプロ化がこの時期始まり、アナクレットが知らぬ内に、一役買っているような気がしてなりません。
1935年にその名誉を讃え、故郷のパケッタ島の一つの通りが、彼の名前に冠されました。

参考:Almanaque do choro
オ・ショーロ

ショローンとその時代