カツロ・ダ・パイション・セアレンセ

カツロ・ダ・パイション・セアレンセ
Catulo da Paixão Cearense

 8/10/1863 São Luís, MA
 10/5/1946 Rio de Janeiro, RJ



 カツロは19世紀の終わりから20世紀の初めにかけてリオデジャネイロで活躍した詩人、ギタリスト、歌手であり、ノルデスティの香りがする彼の詩はモジーニャとセルタネージョとしてブラジル人に愛されました。


「落ちた大地」
(Terra Caida)
カツロ・ダ・パイション・セアレンセ


親愛なるマリオ・ジョゼ・デ・アルメイダに捧ぐ


今日、一月七日
セアラを離れ
アマゾンへ発つ
あのゴムの木の地へ

猛烈な密林
そのまた中心へ
ゴムの木は乳を出して
我々を疲れさせる為に存在する!

冬は地獄
巨大な監獄に閉じ込められる
冬は動けない
アマゾンは洪水の季節だ

夏よ来い
でもそれは言わないことにしよう
何故だと思う、わが友よ
君はゴムの木を知っているか?

働け、働け
ちっぽけな男よ
バラック小屋に住めば
雨漏りもするだろう
風邪もひくだろう
でもそれが何だ!

働け、働け
デンデ椰子が朝を告げる
昼間はブヨに
血を吸われ
夜になれば
蚊がやってきて
血だらけだ

以下続く
(貝塚訳)


カツロ・ダ・パイション・セアレンセの事績を調べようとブラジルの古い雑誌を読んでいた時のことです。
上記の詩を捧げられたマリオ・ジョゼ・デ・アルメイダ氏が「カツロはボヘミア人であったがカッパドキア人では無かった」と言っています。
僕の思考はここで止まってしまいました。

ここでいうボヘミア人とはチェコのボヘミア人ではなく葛城ユキの歌の「ボヘミアーン」と同じでしょう。
ではカッパドキア人とは何か?
辞書には「カッパドキア」とは「カッパドキアで生まれた人」或いは「下劣な人、詐欺師、ホラ吹き、ペテン師」とあります。

するとアルメイダ氏の発言は「カツロは自由を愛したが、詐欺師ではなかった」という意味なのでしょうか。
それにしても何故カッパドキア人なのか?

僕はカッパドキア人の意味を探ることにしました。
先ず目星をつけていたバイブルを繰ってみますと一ヶ所この名が見つかりました。
ペトロの手紙の一節に「ペトロは…カパドキアに離散した…人々に手紙を送る。平安があるように」と書かれています。
しかしこれでは何のことか分かりません。ただカッパドキア人は相当古い人たちらしいことは読み取れました。

次に日本語のウィキペディアでカッパドキアを検索するとトルコの一地方であるとなっています。
写真には不思議な形をした岩が立ち並び、この岩に穴をくりぬいて人々が住んでいたようです。
これでも何のことだか分かりません。

更に「カッパドキア」に「ホラ吹き」を加えて検索しました。
現れたのはポルトガル語にイタリア語。「カッパドキア人あるいは無知な人」とあります。
これでは同義反復に過ぎません。でもブラジル以外の国でも同様な意味で使われていることが分かりました。

ではと「カッパドキア」に「ホラ吹き、無知」と入れてみました。
先生と生徒で問答するサイトがあり、生徒の「カパドキア人は何故無知なのですか?」との質問に先生が「ギリシャ人がカッパドキア人を無知な人と思っていたから」と答えています。

ここから推測です。
多分ギリシャ人はあの恐ろし気な岩窟に住むカッパドキア人を邪悪な者、無知な者と呼んで安心したかったのでしょう。
日本の平安時代における土蜘蛛と同じで、見当が付かず何者か分からない者を無知な野蛮人と呼ぶことで自分を高い位置に置き安心したかったのでしょう。
これで納得したことにして先に進むことにしました。


詩人であり裁判所の書記でもあるアルメイダ氏の話は続きます。
「カツロは自由人であったが詐欺師では無かった」
「カツロは自由人であると同時に労働者であり、義務を全うする正直者でもあった」
「オウヴィドール通りを木靴を履き食べ物を詰め込んだ弁当箱をぶらさげ歩いていたのをよく見たよ」
「何故だと思う? 当時は『フロックコートを着た労働者』という呼び名があった時代で、金持ちの息子や有力な政治家の親戚、果てはジャーナリストまでが何らかのコネクションで沖仲士の賃金を受け取っていた。どこが現場かも知らず、働きもせずただお金を受け取るだけ」
「カツロも最初はそんな仲間に誘われていた。彼の人生の中で一番困難だった時だ。でも彼の正直さがそれを許さなかった。いつの間にか港に姿を現し肩に重い荷物を担ぐようになっていたよ」
「しかし彼の天賦の才能は文学にある」
「港の仕事を辞めてピエダーデのマルチンズ・コスタ通り31番に小さな学校を設立したんだ」
「その学力はテレス・デ・メネゼス学校で学んだから。ここでは優等生として特別席を与えられていて、特にカツロはカモエンスとラシーネが好きでここでのポルトガル語とフランス語の勉強が後に役に立ったようだ」

アルメイダ氏の思い出話は1880年代カツロの20歳から23歳にかけてのことです。

時間を20年程戻します。
セアレンセという名字は父親由来で、カツロ自身は1863年10月8日マラニャオン州の首都サンルイスのセントロ地区で生まれました。
住所は昔のグランデ通り63番、今のオズワルド・クルス通り66番。ブラジルでよく見かけるソブラードと言われる普通の二階建て家です。
1940年代の写真では青いタイル(写真は白黒ですが説明文によると例のポルトガル風の青いタイル)で飾られています。
今でもこの建物が残っていて(前面は吹き替えられていますが)カツロの顕彰プレートが玄関脇に掲げてあります。
ここで父親のアマンシオ(セアラ生まれ)は貴金属加工業を営み上階を住居にしていました。
兄のジル、次男のカツロ、弟のマウリシオ、そしてセアラで生まれた末弟ジェルソンの4人兄弟。(母親はマラニャオン生まれ)

カツロが10歳の年に一家は父親の故郷セアラに移ります。(父親が不運にもある有名な殺人事件に巻き込まれ一家はサンルイスを去らざるを得なくなりました)
一家がセアラ州のどの町に住んでいたのか語る資料は見つかりませんでした。
セアラの内陸部の町に住んでいたというのが分かったきりで、あるサイトにカツロはセアラで「困難」に直面していたと書かれていました。
この困難の意味がカツロと家族の関係を示しているのか、カツロが家族と共に困難に直面していたのかははっきりしません。
前者ならカツロと父親の関係、後者なら生活苦という事になるでしょう。
どちらにせよ事件のトラウマに悩まされていた(と思われる)父親にとっても思春期のカツロにとってもこの時期はつらいものだったでしょう。
もっともその時にはセアラでの思い出が後に詩となってカツロの人生を彩るとは思いもよらなかったでしょうが。

1880年心機一転、一家はリオデジャネイロに移ります。ボタフォゴ地区のサン・クレメンテ通り37番。海からは二筋目。サンルイスの家に似た一階に扉が三つ、二階にベランダ付きの窓が三つのソブラードです。
ここに父親は再び貴金属加工兼時計修理店を開いて家族は上の階に住むことになります。

1880年と言えばリオにヴィンテンの暴動が起こった年です。
背景を考えると、ブラジル王国は1822年にポルトガルから独立しましたが、国として発展するには軍隊もいるし、教育制度も作り上げねばならないし、工場も鉄道も必要です。
お金を貸してくれるイギリスは奴隷制度に反対で、王政支持者の農場主からは奴隷制度の維持を求められ、王政府はどちらへ進むべきかジレンマに陥っていました。

リオの町は都になって60年、工場の労働者と兵隊と小役人、東北地方で食い詰め都にやって来た解放奴隷や肉体労働者といった大衆の数が増えていきます。
そんな中で政府はリオの鉄道馬車の乗車賃を10%、20レイス(ヴィンテン)の値上げを決めました。
これに市民(5000人程)が怒って騒ぎ出し、馬車はひっくり返されるは、馬は刺されるは、石畳は引きはがされて投げつけるはで陸軍も治安維持に出動します。
(馬車が電気軌道になったのはこの後の1890年代のことです)
サン・クリストヴァン会社の馬車の御者だったショローンでフルートのロロも巻き添えで死にました。

ちなみにこの値上げ分の20レイスは砂糖の139グラム分の価格相当だったとのことで、今のブラジルの小売価格1キロ2.95レアルで計算すると41センターボです。これを1ドル=5.4レアル=107円で換算すると、8円程度。
東京メトロの初乗りの160円と比較すると5%相当で、値上げが10%なら16円です。これが往復かかります。
どうせ上流階級は下品な乗り合い馬車なんかには乗りはしません。明日の知れない労働者が身を切って払うばかりです。

カツロ一家に話を戻します。
ここからは想像です。
カツロはこの時17歳になっています。
田舎なまりで、教育も受けていなければ、金も無いし頼れる友だちもいない。しかもリオの町の人心も荒れています。
強靭な体を持ち頭も切れるのにシダージ・マラヴィリョーザ(魅惑の都市)と呼ばれたリオデジャネイロに自分が入り込む余地なんかは全然無さそうに見えたでしょう。
未来が永遠に閉ざされていると感じたとしても不思議ではありません。

そんな時目の前に現れたのがボヘミアン。セルタンの田舎にはいなかった人種です。
社会不安を気にもせず、人生設計も持たず、肌の色も取り取り、金があるとか無いとかを気にもせず、ノルデスティ出身者もちらほらいるし、セレナータやフェスタに呼ばれればモジーニャを歌いポルカを演奏し、腹一杯食べて飲んで一晩中踊り明かすという人種です。
少年カツロがこんな人種に憧れたとしても仕方ありません。

リオに着いてすぐにカツロは母親を失います。
その所為だったのかどうかは分かりませんが願いが叶ってカツロは不良になれました。
しかもただの不良じゃありません。ほとんど独学でポルトガル語、数学、フランス語を学び自分の物にします。
(コレジオ・テレス・デ・メネゼスで優等生だったのもこの頃でしょうが、当時有名だったスピリチュアルリストと同じ名前のこの学校の痕跡を探しましたが見つかりませんでした)

店舗兼住居のサンクレメンテ37番から西にレアル・グランデーザ通りを左に曲がり南へ、峠道のタラバハス坂を超えて、マルチンス・バロス通り、今のシケイラ・カンポス通りを左に入り、そのまま真っ直ぐ行けばコパカバーナの海岸です。3キロ弱40分の道程です。
当時のコパカバーナはカツロたちが引っ越してくる25年前にボタフォゴの地主が市長に頼んでボタフォゴとコパカバーナを繋ぐ道を開拓したばかりで、殆ど砂漠と言ってもいい何もない郊外でした。

このマルチンス・バロス通りに“レプブリカ・エストダンテス”つまり学生自治の下宿屋がありました。
(ピシンギーニャの父親の営んでいたのはペンソン・ヴィアンナ。似ているようですが形態が違います)
このレプブリカに住んでいたサキソフォンのアナクレット・デ・メデイロス、ギターのキンカス・ラランジェイラス、歌手のカデッテ。それとヴィリアット・ダ・シルヴァ
(資料にはヴィリアットの盟友アントニオ・カラッドの名もありました。しかしカラッドはこの年の3月20日に亡くなっています。もしもカツロが会えていたとしても短期間かと推測します)

カツロはフルートとギターを始めました。ここからボヘミアンへは一足飛びです。
リオデジャネイロにはここ以外にも数多くのレプブリカがあり、カツロはそこら中で催されるセレナータに毎晩出かけるようになります。
この頃初めてのモジーニャ”Ao Luar”(月に)を作りました。カツロの声はバリトンでした。


「月に」
Ao Luar

カツロ・ダ・パイション・セアレンセ


優しくて
穏やかで
今は夜の十二時
柔らな手触りで
胸の痛みを和らげてくれる
あのトロヴァドールの歌が聞こえてくる

以下続く
(貝塚訳)

カツロがこのモジーニャをとあるレプブリカで披露したその夜、父親のアマンシオは怒ってカツロの頭にギターを振り下ろして破壊してしまいます。
ギターはその頃(今も?)不良の象徴、下品な楽器の見本だったのです。
その真面目な父親も3年後にこの世を去ります。
一番上の兄のジルが23歳、すぐ下のマウリシオが18歳、一番下の弟ジェルソンが12歳。カツロが20歳。この後兄弟の消息は不明です。
カツロは父親の死後もサンクレメンテの家に住んでいたのかは定かではありませんが残りの三人の兄弟としばらくは一緒だったのでしょう。

すねかじりもここまで。職を探さなければなりません。
ここから冒頭のアルメイダ氏の話に繋がります。
昼間は木靴を履いて港の沖仲士として重い荷物を運び、夜はフロックコートの正装姿であちらこちらのセレナータで歌とギターを披露する毎日です。憧れのボヘミアン生活です。

そんな生活を続けていた1885年のある日、リオ・グランデ・ド・スル州の上院議員ガスパール・シルヴェイラ・マルチン氏の家で開かれたパーティーに招かれました。
カツロは上手くやったのでしょう。議員、特に議員夫人にカツロを助けたい気持ちを起こさせ、夫妻の息子たちの家庭教師役を頼みました。
カツロはこれを受け、ガヴェア地区にあった上院議員の自宅に住み込み、昼は家庭教師、夜は相変わらずのセレナータと幸運な日々を過ごしていました。

しかし好事魔多し、女好きの評判がたたります。ある日カツロの部屋から半裸の女性が見つかり、彼女はカツロに暴行されたと訴えました。
カツロは警察や教会に引き回された上、この女性と結婚の約束をさせられます。
悪友たちのいたずらでした。カツロは何とか教会での書名をする前に解放されました。これがカツロの唯一の結婚らしきものです。

かのムレレンゴ、大の女好きのカツロには結婚は邪魔だったのでしょう。
カツロには一人の女神がいました。ゴイア州の上院議員の娘で本名は不明であだ名の「コレイラ」(首飾りを付けていたので首輪?)だけが伝わっています。
カツロ本人によれば美人で天使の眼をした娘だったとのことで、100年後にのろけを読まされても「御馳走さま」です。
カツロは彼女には歌を捧げています。”Ave Maria Humana e Imortalidade”「生きている永遠のアヴェ・マリア」 
しかしこのカツロ唯一の恋愛らしきものは失恋で終わりました。
「カツロはこの痛手に上院議員の家を去り、ピエダーデの郊外に移ってここで小さな学校を開いた」と多くの批評家が言っていると資料にありました。
(この二重の伝聞というのは、誰も本人でないから本当のことは分からないし、あの厚顔のカツロのことだから断言して騙されては恥をかくと躊躇したからだと推測します)

ブラジルは1889年王が追放され共和制となり、その後政治的に安定せず91年から94年にかけての一連のレヴォルタ・ダ・アルマーダ他、軍を巻き込んだ反乱が何回も起きています。
この時期カツロの名は徐々に上がっていきますが、彼の政治的立場がどうだったのかは分かりませんでした。

カツロは動物的な感覚で大地の騒めきを聞き取ってブラジル東北地方(ノルデスティ)の方言が持つメロディーや発音を使いまわして簡単な言葉に移し替えたのです。(Catulo, o poeta popular do Brasil)

たった数年前には無一物だった若者が自分だけの畑を見つけたのでしょう。
その自信と押しの強さが100年経っても匂ってきそうです。
「自惚れ屋で女好きでアクが強くまるで田舎役者みたいだ」と保守派に敵が多くいました。
こんな敵の一人に道で出会うとカツロは「今ルイ・バルボーザ大臣の家でリサイタルをしてきたところだ。俺の『翼の賛歌』” Hino Às Aves”を聞いてあのバイア男が泣いていたよ。俺はそれが見たかったのだ」とほざいたとのことです。
もしこれが「ハーグの鷲」(1907年ハーグ会議での活躍から)とのあだ名を持つ大臣をからかったのだとしたらカツロの無礼というか度胸も相当なものです。(ピエダーデの学校ではバルボーザ氏の著作を教科書として使っていました)

もう一つの逸話が残っています。ニロ・ペサーニャ氏がリオの州知事時代ですから1903年から1906年の間のある夜、カツロは初めて州知事官邸に招待され歌と詩の朗読を披露しました。
口さがない批評家たちは「カツロは裏口からカテッテ地区に入って来た」と言い広めました。
ギターは上流階級の住むカテッテ地区には相応しくない楽器だと思われていた時代です。

1908年指揮者アルベルト・ネポムセーノの仲介で国立音楽劇場(Instituto Nacional de Música)でのリサイタルを成功させます。
この時には評論家オスカル・グアナバリノ氏はギターを持ち込むこと自体がクラシック音楽の殿堂への侮辱であると非難しています。

ここで一人の女性が登場します。1913年12月8日に現職のフォンセッカ大統領(58歳)に請われて結婚したナイール・デ・タフェ夫人です。
ナイールは世界で最初の女性の風刺画家であり、上流階級出身(男爵の娘)であり、パリやニースで学び、多分フェミニストであり、アヴァンギャルドでもあり、そして美しくて若い(27歳)女性でした。
(ナイールは本名”Nair”を逆から呼んだリアン”Rian”名で雑誌フォンフォンに風刺画を描いていました)

1914年51歳のカツロはナイールに招待されカテッテでリサイタルを開催しました。ギターを小脇に抱えてカテッテの宮殿の階段を上るカツロは得意の絶頂だったでしょう。
夫人が後日語ったところによればカツロの演奏は大盛況で参列者全員が立ち上がって拍手をしたとのことです。この功績でカツロは印刷局での職にありつきます。


カツロとは直接の関係はないですが、この後ナイールは更にスキャンダルを起こします。
1914年10月26日フォンセッカ大統領離任のパーティーが開催されました。当然音楽の演奏会もあり、ゴットシャルク、アルツール・ナポレオン、リスト等伝統的でエレガントな曲が演奏されました。
一連の行事が終了しパーティーも散会という時、ナイールはあの下品な楽器ギターを抱えて舞台に上がりシキーニャ・ゴンザガのマシシ「コルタ・ジャッカ」を弾きました。(カツロの伴奏で演奏したという資料もありました)
翌日、新聞に「宮殿にタンゴ!」という見出しが躍りました。
これに例の「ハーグの鷲」のバルボーザ氏が「若い者の笑いものになるな」と口を極めて罵ります。
バルボーザ氏は4年前の大統領選でフォンセッカ氏に負けた腹いせもあったのでしょうか。
お陰で亭主のフォンセッカ元帥は「コルタ・ジャッカ」なるあだ名を頂戴しました。
ナイールは得意の風刺画でバルボーザ氏を描き「私のような真面目な男を笑い物にする若者がいるに違いない」と書き込みました。
突然自分の名前と作品が新聞に載ったシキーニャはびっくりしたことでしょう。もっとも二人は友だちだったようですが。

さてカツロに戻ります。
1906年エジソン・デ・フレッド・フィンジェル社からマリオ・ピニェイロの歌で”Talento e Formosura” “Resposta ao talent e Formosa”、
1907年に”O que tu es”、 “ate as flores mentem e Celia”と1896年にアナクレットが作曲した”Iara”に新しく名前を付けた歌曲”Rasga coração”、
1909年”Choça ao monte””Cabocla bonita”等が録音されました。
1910年にマリオ・ピニェイロで”Adeus da manhã”。
1913年翌年のカーニバルで大成功を収めた”Caboca de Caxangá”が恐らくジョアン・ペルナンブッコのメロディー上で書かれました。
1914年、カツロ最大のヒット曲” Luar do Sertão” がエドアルド・ダス・ネーヴェスの歌で録音されました。作曲は色々議論がありましたが、ジョアン・ペルナンブッコの作品ということで落ち着いたようです。
また同じ1914年セントロのサン・ジョゼ通り65番にあったポヴォ書店のオーナー、ペドロ・ダ・シルヴァ・クアレスマと親しくなり、当時流行していたモジーニャ、ルンドゥ、カンソネッタの小冊子(コルデル)を出版しました。ついで同じ書店で幾つかの自選集を出します。この中には”O cantor fluminense”、”Lira dos salões”他が入っています。
1918年”Meu sertão”の出版、
19年”Sertão em flor”、
21年”Poemas em bravios、
28年” Mata iluminada”, “Meu Brasil”, “Um boêmio no céu” e “Alma do sertão”の出版と続きます。
1928年には”Mata iluminada”、 “Meu Brasil”、 “Um boêmio no céu”、 “Alma do sertão”も出版しました。

1930年代カツロの詩はVicente Celestino, Gastão Formenti, Paraguassu, Patrício Teixeira, Francisco Alves等によって録音されています。


カツロのピエダーデの学校では本当に授業があったのかという疑問に先程のアルメイダ氏が答えています。
「昔、ラッパ地区のジョアキン・シルヴァ通りにバー・オリンピアという店があり、確かモライス通りとヴァレ通りの角だったと思う。
ある日このバーにカツロが音楽仲間を引き連れてやってきて、テーブルで楽器を演奏したり歌を歌ったりと大騒ぎを始めました。
バーのオーナーは腹を立て最寄りの警察に電話しました。警察署長アントニオ・ダ・ビルヴェイラ氏が事件現場にやってきました。
バーの扉から中の様子を窺った署長はオーナーを呼びつけ、『セニョール、あなたの家にカツロ・ダ・パイション・セアレンセがいることに敬意を払った方が良いよ。彼は僕の先生であり、僕には先生に静かにしろとなんて絶対に言えない。今でも先生の生徒であったことに誇りをもっているのだからね』と伝え、バーに入るとカツロ先生の肩を抱きしめました。その後カツロは何本ものビールと拍手を送られました」


カツロの役所勤めについてはバストス・チグレ氏が書き残しています。(彼の著作「サンジョアンの夜」の孫引きです)
最初の話は多分1914年、大統領官邸に呼ばれた後のことだと思います。カツロは印刷局に職を得ます。仕事はタイピスト。カツロは一月に一日だけ職場に現れました。それも給料の支払い日にだけです。
これではまるでアルメイダ氏の言う「カッパドキア人」です。

チグレ氏はもう一つの逸話を語っています。
1930年のジュツリオ・ヴァルガス大統領の革命後のある日、突然カツロは所轄の警察署(軍の部隊?)に出頭するよう電報を受け取りました。
カツロは出かけました。守衛と若干のやり取りの後、部署に通されました。
実直そうな長官が彼に「どんなタイプライターがお好みか?」と聞きます。
カツロは戸惑って「どんなものでも」と答えました。
「しかし好みはあるでしょう」
カツロは頭の中を整理してある名前を思い出しました。「シンガー製がいいですね」

この職場には10年から12年間働いた後に退職しました。
1940年からヴァルガスは最低給与制度を発令しており、退職時のカツロの給与は最低給与の30万レイスだったとのことです。
当時の30万レイスがどのくらいの価値があったか分かりませんが、最近の最低給与は250ドル程度ですからそれと同じだとすると3万円弱です。

1930年代の終わりからカツロの財政は逼迫してきました。
カツロはサンパウロ在住の歌手パラグアスに頼んで一連のリサイタルを開催しました。これにはラジオ局やアデマール・デ・バロス知事の招待による知事官邸での演奏も含みます。
この興行は大成功で会場は満席、本も売り切れとなりました。
それでもカツロの状況は危機的でした。カツロは友人に手紙で窮状を訴えサンパウロで何か助けを求められないか頼みました。
これが功をそうしたのかアデマール知事は封筒に20コント(2千円位?)硬貨を入れてカツロに送ります。
カツロは知事に「閣下がお見捨てにならないことは知っていました」と皮肉を込めた返事をしましたが、それで終わりです。

カツロは更に貧窮のどん底に落ちます。
最後はエンジェーノ・デントロ地区のフランシスコ・メイエール通り(現カツロ・ダ・パイション・セアレンセ通り)の木造間ラック小屋に住み、自分の著作権は「友人」ギマラエンス・マルチンスにはした金で売り払ってしまいました。

と、こうは書きましたが、木造バラックの家からカツロがギターを持って出て行く写真が残っており、それが記事のいうカツロの家だとすると日本の戦後に乱立した木造の公営住宅よりはよっぽど上等です。
(資料では最初の家はテントのようなボロ屋で同じ通りの二軒目の家はそれよりか幾分上等だったとありますので写真の家は二軒目かも知れません。船に住んでいたと云う記述)
また友人の証言によると家の中ではいつもパジャマ着。この姿で訪問者を受けるが、表に出る時はネクタイ姿。身に付けるのはこの二種類だけだったとのことで最後までボヘミアン振りは残っていたようです。実際、写真のカツロはリュウとしたシャツ姿です。

1946年5月10日、カツロは83歳で息を引き取りました。葬列はアナクレットが創設した消防警察音楽隊に先導され、埋葬の際には何千もの人々が参列し第二の国歌とも呼ばれるカツロのあの歌「ルアール・ド・セルタン」で偉大なる詩人をおくりました。


Luar do Sertão (セルタンの月の夜)
カツロ・ダ・パイション・セアレンセ 

故郷の月は
丘に浮び
岩陰の落ち葉は白く光る。
この町の月は何を照らす
故郷に残してきた幸せを
丘に浮かぶあの月は覚えているのか

友よ、聞いてくれ
セルタンの月の夜のことを
友よ、聞いてくれ
セルタンの月の夜のことを

以下続く
(貝塚訳)

Luar do Sertão ; YouTube

May 29 2020



筆者よりちょっと:1936年にリオで出版された「オ・ショーロ」(アニマル著)を筆者は2015年に「ショーロはこうして誕生した」と題して翻訳出版しました。
アニマルはカツロの項で「カツロはセルタネージョとモジーニャのガンディーだった」と書いています。
筆者はアニマルが最大限尊敬するカツロに捧げたこの一行、この”比喩”には特別な意味が込められている筈だと考えました。
インド、ブラジルの歴史を読み返し、20世紀の時代性とか両者の精神性の同一とか色々悩んだ末、半分降参して「カツロはガンディーに似て着るものに気を使わなかった」と訳しました。
しかしカツロの小伝を書いていて気が付きました。カツロはボヘミアンでお洒落です。
どうやらあの一行は比喩なんかではなく、多分アニマルはカツロとガンディーの両人はその禿げ頭と眼鏡で「瓜二つだ」、「そっくりだ」と言いたかったのだと思い当たりました。

 

参考:A NOITE 1946 Jul.16号
CASA do CHORO Catulo
Dicionario MPB Catulo
Quem foi Catulo da Paixão Cearense
Catullo da Paixão Cearense Semira Adler Vainsencher
Heitor Villa-Lobos: A Life (1887-1959)
Revolta do Vintém de 1880
Travessa Santa Margarida, Copacabana
Catulo, o poeta popular do Brasil
CATULO DA PAIXÃO CEARENSE (1863-1946)
Alma Accreana
Moradores da Memoria: Sao Luis
Homenagem ao Catulo da Paixao Cearense
Sao Luis em Cena
Nair de Tefe Wikipedia
O sol nasceu pra todos: A História Secreta do Samba
Jangada Brasil, nº 9, maio de 1999: Almanaque 1/4
A caricaturista Nair de Teffé
ショーロはこうして誕生した

ショローンとその時代