アベル ・フェレイラ

Abel Ferreira
(アベル・フェレイラ)
(1915-1980)

「彼の中には一人の少年が住んでいて時折顔を覗かせる」とジャーナリストでレコードプロデューサーのマルクス・ペレイラが言っています。
その意味を僕なりに解釈すると、田舎の貧乏な家で生まれた少年がクラリネットを片手に自分の才能だけを頼りに生きてきたと、いうようなことかなと。それじゃあ、あまりにも浅薄な解釈かもしれませんが、間違いとも言い切れないと思っています。

アベル・フェレイラはミナスジェライス州西部、ゴイアス州都の境にある小さな町コロマンデル(Coromandel)で生まれました。
幼い頃から日雇いのように働かされ、学校も音楽も公には学んでいません。町の楽団の音楽を聞き5歳でハーモニカ、7歳で竹製のフルートを演奏していたらしいです。

12歳で当時の音楽教育メソッド・アルチーニャ(Artinha)によりコロマンデル在住の音楽教師(Prof.Hipacio Gomes)にクラリネットの手解きを受けました。これがアベル・フェレイラの最初で最後のまとまった音楽教育でした。

15歳のときサックスを手に入れ、それからもずっと一人で楽器も作曲法も学んでいます。

35年20歳で音楽家として生きるためサンパウロに引越し、マウリシオ・カスカペラ・オーケストラ(Mauricio Cascapera)に入りましたが直ぐにミナスジェライス州の故郷近くのウベラバ(Uberaba)に移りました。地元のラジオ局の音楽担当者としての職を見つけたためです。
この頃サンパウロ州に近い保養地ポッソ・デ・カウダス(Poco de Caldas)でカルメン・ミランダ、アウロラ・ミランダ姉妹のショーのバックを勤めています。

37年にミナス州の首都ベロ・オリゾンテに引っ越し、40年から42年にはサンパウロで ショランド・バイシーニョ(Chorando baixinho)をクラリネット・ソロ、サックス・ソロで録音しました。

43年にリオデジャネイロに移ります。
ロープウエイのあるパン・デ・アスーカルの下ウルカ(Urca)のカジノ(当時は合法で、上流階級の集まるところでした)で、フェレイラ・フィーリョ(Ferreira Filho)楽団に入り、その後、Marlene, Emilinha Borba, Orlando Silva等の録音にバックで演奏しています。

57年から65年にかけてアメリカ、アルゼンチン、ヨーロッパで公演を重ね、71年に一度引退しましたが75年にCopinha, Raul de Barrosと共にライブ活動を行いました。

80年にリオデジャネイロで亡くなりました。

参考:LP Brasil, Sax e Clarinetaライナーノーツ
Dicionario Cravo Albin
ルシアーナ・ラベーロ エッセイ

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