2020年4月18日

アルタミロ・カリーリョ

アルタミロ・カリーリョ
Altamiro Carrilho
1924 Santo Antônio de Pádua-RJ – 2012 Rio de Janeiro-RJ
 



カラッドピシンギーニャそしてアルタミロ・カリーリョの三人をフルーティスト兼作曲家としてショーロ界の三大巨匠と呼びたいのですがどうでしょう?
(アルタミロが4人のThe Best Flutistsの内の一人に選ばれたという記事を見ましたが残りの3人が分からない)

アルタミロのインタビュー記事を幾つか見つけたので整理しながら訳してみました。
インタビュアーの一人はアルタミロとの会話は陽気で冗談が多いって言ってます。彼のアルバムの表紙にも剽軽なおじさん的なものを感じますが、”真面目な内容”で話をまとめました。

「19世紀後半、ジョアキン・カラッド、エンリッケ・デ・メスキータシキーニャ・ゴンザガヴィリアット・ダ・シルヴァが活躍した時代、ブラジル音楽というものはまだ存在せずすべてが輸入品だった。
彼たちは自分たちの大地の音楽、ブラジルの音楽といえる自分たちのリズムを探していた。最初に手を付けたのはメスキータ。タンボールの伴奏でアフリカのリズムを使ってルンドゥを作った。しかし少しハバネラの匂いがする。そのヨーロッパ的な香りはカラッドもシキーニャもメスキータ本人だって望んでいたことではない。
それぞれが他の道を探し始めた。でもいつも黒人たちのタンボールがついている。パーカッションが強めだ。考えて見ればカラッドは黒人との混血であるし、シキーニャもメスキータにも黒人の血が混じっている」

「カラッドも一拍に4つの16分音符を並べてルンドゥを作り、続いて2拍子をベースに2拍に8つの16分音符を並べてショーロのリズムを獲得した。このリズムの上に数学みたいにメロディを乗せて完成だ。こんな風にショーロは4分の2拍子から生まれた。だから順番で言うとリズムが最初でそれをベースにメロディが出て来るというのが本当だ」

「ピシンギーニャはフルートの演奏家としても作曲家としても天才だ。ホーダで何か思い付くとホーダの終りにはもう音符にしている。即興の音を全部暗記しているのだ。モーツァルトみたいに作曲に時間をかけない」

「ピシンギーニャは少年時代、ベートーベンの交響曲をちょっと聞いただけで覚えてしまった。それが後に<インジェヌオ>や<アインダ・メ・レコルド>に現れている。断片を体の何処かに内蔵しその日が来ると剽窃ではなくそのフレーズにある精神を甦らせるのだ」

「ピシンギーニャに<クイダード・コレガ>という曲があるだろう。彼の曲は全部演奏しているから分かったのだけれど、この曲の美しいフレーズは何処から来ていると思う?ヴィヴァルディだよ。完璧な音階。ピシンギーニャ自身も知らないし気付いていないと思う。誰かの曲の断片を使って作曲する作曲家というのもがあるならピシンギーニャはそうだった。他にもそうする奴がいる。僕だってそうだ。ガレオン空港で呼び出し音を聞いた時4つのノートが頭に残った。飛行機の中でその音に基づいて書き続けた。フォルトアレーザのホテルに着いた時には曲はほぼ完成していた。それがショーロ<アエロポルト・ガレオン>。後はブラッシュアップだけ。その夜に演奏したよ」

「腕はたつけど真面目ばっかりのミュージシャンがポピュラーミュージックを職業にしても成功はおぼつかないね。“少年性”が必要なんだ。遊んでいるように、面白話や愉快な話をしているように演奏する気持ちが大切なんだ」

「僕はピシンギーニャやベネジット・ラセルダといった最高のフルーティストの演奏を磁石が引っ付くみたいに聞いていた。全部自分の物にしたかった」

「ジョアキン・カラッドみたいな真面目なミュージシャンは楽譜通りに何も加えず厳格に演奏するのが好きだ。でも僕には耐えられない。時には譜面に書かれた以上に良いフレーズを思い付くことがあるから。だから元のメロディを壊さない範囲でハーモニーをモディファイする自由はあると思っている」

「この点ピシンギーニャは最高のフルーティストだった。けれど彼の生きた時代には書かれた楽譜に忠実に演奏する以外に選択は無く自由に演奏することは許されなかった」

「今の演奏家にとってはもっとやり方があるかも知れないけれどあの時代テーマを楽器で様々に変奏するのは非難の種だった」

「ピシンギーニャが何故フルートを捨てサックスを選んだか理由を知っているけど言わないよ。間違った反応が起きてお世話になったピシンギーニャに迷惑をかけたくないから」

「ピシンギーニャは圧力に打ち勝ってウルブ・マランドロのテーマで有名な変奏曲を作った。僕もピシンギーニャの勧めであの曲を録音することになった。あの変奏曲はピシンギーニャみたいに吹くのは難しい。でもあの曲には学ぶべきことが詰まっている。元の曲が良いのだから上手く吹けなきゃ意味がない。僕はピシンギーニャのところに行って『1週間は練習しなければならない』と言ったんだ。ピシンギーニャは聖書の預言者みたいに『そんなことはないでしょう。二日もあれば君は吹けるようになるでしょう』と言う。結果、次の日の午後には難しい所を全部征服できていた」(1930年ピシンギーニャはフルートで録音している。1971年にアルタミロが録音)

Pixinguinha Urubu Malandro 1930

Altamiro Carrilho Urubu Malandro 1971

「軍事独裁時代(64年-85年)は難しい時代だった。楽器演奏者はゴミ箱に捨てられたようなものだった。劇場でお金を稼ぐこともできない。何故ならどんな些細な小話笑い話も禁止されていたからだ。この時代音楽で生きて行く事を殆ど諦め、昔のように薬剤師に戻ろうかと考えていた。最高の音楽家たちがショーファーやバーマン、門番になっていく例をたくさん知っているよ」

注;ウルブ・マランドロ
1913年ロウロ(クラリネット吹き)の演奏で<サンバ・ド・ウルブ>として最初の<ウルブ・マランドロ>が録音された。異論はあるがロウロが曲の権利者になっている。
ジョタ・エフェジ(ジャーナリスト)の調査ではこのポルカはフェニアノス・ウルブス・マランドロス・クラブの為にフランシスコ・アントニオ・ドス・サントスが作曲し1894年ブスキマン&ギマラエンス社により出版されている。
またジャイロ・セヴェリアーノ(歴史家)によればこの曲を有名にさせたことはロウロのお陰といえようがフランシスコ・ドス・サントスの楽譜とオイト・バツータスの録音を比較すれば、この変奏曲の完成はピシンギーニャと仲間(最高の即興演奏と共に)の功績に帰すとのことである。元々<ウルブ・マランドロ>のテーマはリオデジャネイロ州北部の民間伝承に基づいている。
アレシャンドレ・ピント著の「オ・ショーロ」(1936年)にロウロは「クラリネットの第一人者」であり彼との共演がどれ程の名誉だったか記されている。

 

アルタミロの簡単な略歴
1924年リオデジャネイロ州北部のサント・アントニオ・ド・パドゥアで音楽一家に生まれる。5歳でフルートを手に入れその天才ぶりに町の郵便夫でアマチュア・フルーティストだったジョアキン・ジョゼに初めての手ほどきを受ける。後に一家でリオへ移る。
1938年この頃アリ・アローゾのラジオ番組でのアマチュア大会で優勝を飾る。

1944年頃のアルタミロの思い出話。

「薬局で働いていた時、モレイラ・ダ・シルヴァとバンド仲間が近所の薬局の少年のフルートが良いっていう噂を聞いて僕の所にやってきた。僕は震えて『僕はプロじゃない』とかなんとか言ったのだけれど、彼たちは『すごく良いって聞いているぜ』とショーに招待してくれた。僕は行ったよ。そこで練習無しのいきなり本番だ。ラジオで流行っている演奏も古い演奏も沢山聞いていたのでそれが助けになった。モレイラは振り返ってにっこり笑ってくれた。ショーが終るとモレイラは僕の肩を叩いて『今度の水曜日の録音に来なよ』と言う。その日は土曜日だった。僕が『それは期待のし過ぎでしょう』と言うと『君の演奏は良かったよ』と答えてくれた。人は勇気を持たなくてはいけない。引き金は引いてみるべきだ。上手く行けば上手く行くし、たとえ上手く行かなくとも挑戦したことは残るからね」

1950年ベネジット・ラセルダの代わりにカニョートのコンジュントに参加。
1956年自身のバンド、バンジーニャ・デ・アルタミロ・カリーリョを結成。
60-70年台はポルトガル、スペイン、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、メキシコ、ソビエト、イスラエルなど約50か国で演奏する。
1987年エルザベッチ・カルドーゾと共に日本公演。
(この60年代以降の活動は軍事政権に対して韜晦していたのかどうかは分からないけれど、それも少し関係していると想像してみます)

亡くなるまで生涯現役でした。
生涯70枚のレコード、ディスコを出し、約2百曲の様々なリズムとスタイルの曲を発表しています。
マウリシオ・カリーリョの伯父さんでもあります。

Apr.20 2020

参考:O Radio Faz Historia-Altamiro Carrilho
SESC Sao Paulo Entrevista Altamiro Carrilho
Casa do Choro
Dicionario Cravo Albim Louro
Folha de Londorina; Mestre Flauta Magica de Altamiro Carrilho
Nova Democracia
ショーロはこうして誕生した (オ・ショーロ)

ショローンとその時代