ベネジット・ラセルダ
Benedito Lacerda
1903 Macae, RJ – 1958 Rio de Janeiro, RJ
ベネジット・ラセルダは20世紀の初頭にリオ・デ・ジャネイロ市から北東へ170キロメートル程離れた海沿いの小さな町マカエで生まれました。
この町の飛行場がベネジット・ラセルダ空港と命名される程彼が町の英雄だったとは知りませんでした。
ベネジットより50年程前に同じ町マカエでショーロの父祖の一人、ジョアキン・カラッドの盟友ヴィリアット・ダ・シルヴァも生まれています。
ベネジット・ラセルダを「ベネ(Benê)」と呼んでいる記事を見つけたので、これはいいやと「ベネ」と書き始めましたが途中で止めました。彼に「そう呼んでくれ」と言われているような気がしなかったからです。最後は社会的活動に忙しく演奏活動をカニョートに譲り著作権協会の理事長にもなった男です。
ピシンギーニャの多くの曲にベネジットの名前がクレジットされていますが、それ以外にベネジットの残した音楽的な業績は何かと探していると「ブラジルの音楽史上最も活動的で革新的なフルーティストの一人であり、小編成カメラッタ、所謂コンジュント・レジョナルを根本的に変革した男」という文章を見つけました。
ベネジットの演奏を聴いたアレシャンドレ・ピントは「オ・ショーロ」(1936年リオで出版)で「先日、家のラジオから流れて来た彼のプレリュードに聴き入ってしまった。静かで優しい音質が僕の何かに触れたのだ。完璧な理論に裏付けされた演奏はこの世で最も懐疑的な評論家でさえも夢中にさせるだろう」と言っています。
そうなのです。ベネジットは黄金のラジオの時代の寵児だったのです。(1922年9月7日の独立記念日にラジオ放送が始まりました)
コンジュント
1930年に自身のフルートとブラジルのリズムを強調するためパーカッションが強め(タンボリン2つ、ショカリョ1つ、パンデイロ1つ)のジェンチ・デ・モッロを結成しました。
1934年にこの経験を活かし、ラジオとレコードの為に、パーカッションを小さめ(パンデイロ1つだけ)でギターの音色を活かした新しいグループ、コンジュント・レジョナル・ベネジット・ラセルダに発展させました。
メンバーは自身のフルート、2本の6弦ギター(37年からジノとメイラ)、カヴァキーニョ(カニョート)とパンデイロ(ルッソ・ド・パンデイロ)でこれが後に小編成カメラッタの一つの典型となりました。
1950年にカニョートのリーダーに代わり、ジャコーのエポカ・デ・オウロ、更に今まで続くコンジュント編成の王道の始まりです。
このレジョナルはフランシスコ・アルヴェス、シルヴィオ・カルダス、オルランド・シルヴァ、アラシ・デ・アルメイダ、ドリヴァル・カイミ、カルメン・ミランダ等数多くの歌手のバックを務めまています。
ピシンギーニャ
40年代にベネジットはピシンギーニャの人生に欠かすことができない役割を担うことになります。
フルートから離れ家族の住む自宅が抵当に取られそうになる程困窮していたピシンギーニャにベネジットは手を貸します。
ベネジットとヴィターレ兄弟出版社は25枚のレコード(実際は17枚)を出すことと作曲の共同著作権(過去に作曲していた曲も含め)を条件にアドバンスで援助したのです。このおかげでピシンギーニャは音楽界に戻れただけでなく借金の山からも逃れられました。
そしてこのプランがピシンギーニャの再生だけでなくショーロの歴史を書き換える事件となりました。ピシンギーニャのサックスによるコントラポントの演奏がショーロのモデルニゼーションを引き起こしたのです。
「ベネジットとピシンギーニャのデュエットのアイデアはベネジットのものだった」とのカニョートが言っています。「あの頃ピシンギーニャは忘れられた存在で誰も彼のことを思い出さなかった。確かに曲はピシンギーニャが作ってレコードを録音しベネジットの名前が共作でクレジットされている。そのことで多くの人間がベネジットを非難するけど、それはいきさつを知らない者の筋違いの反応だ。ベネジットは開けっぴろげな男だった」
またベネジットとピシンギーニャのコンビは47年から52年の間にラジオ・ツピの番組「ペソアル・ダ・ヴェーリャ・グアルダ」に毎週出演し、ピシンギーニャはアレンジャーとしてだけでなく本来の才能を活かし作曲家プレイヤーとして生き返りました。
この「ペソアル・ダ・ヴェーリャ・グアルダ」はアルミランテがプロデューサーで” Almirante, “a mais alta patente do rádio“(ラジオ史上最も価値のあるパテント)がキャッチフレーズでした。このサイトでベネジットとピシンギーニャの演奏がフューチャーされた当時の番組が聴けますので興味のある方は是非どうぞ。
簡単なベネジット・ラセルダの履歴です。
1903年マカエで生まれ8歳でフルートを得、地元のソシエダーデ・ミュージカル・ノヴァ・アウロラに入ります。
1920年17歳の時リオ・デ・ジャネイロのエスタシオに移り、シロ・デ・ソウザの父親ベラルミノ・デ・ソウザにフルートの手ほどきを受けました。同時にリオの音楽院に入学します。
1922年軍警の軍楽隊に入隊しますが並行して映画館や劇場でも演奏し、ジョセフィーヌ・ベイカーのバックも務めたコンジュント・ボエミオス・ダ・シダーデに参加しました。
またエスタシオのエスコーラ・デ・サンバの”Deixa Falar”では打楽器スルドの担当で名前が登録されています。
「1920年台の終わり頃、才能あるフルーティストでエスタシオの住人でもあるベネジット・ラセルダは地元にサンバのグループを作った。このグループはサンバにリズムの変革を伴う革命を起こしサンバを現在ある姿に変えた。これがショーロにも及びショーロ・サンバが生まれ、30年代以降、曲作りにだけでなくこの<エスタシオ・エフェクト>以前の曲を演奏する際にも影響を与えた」(マウリシオ・カリーリョ)
1925年レアレンゴ警察学校に栄転し一流のソリストとして認められています。
1927年除隊。
1930年コンジュント・ジェンチ・ド・モッロを結成。
1934年コンジュント・レジョナル・ベネジット・ラセルダを結成。
1942年SBACEM(作曲作詞著作権協会)を共同で設立。
1948年と51年にSBACEN理事長就任
1958年カーニバルの日曜日に55歳で永眠。
ベネジットは作曲家としてもショーロ、サンバ、マルシーニャス等700曲余り残しました。
一部ですが、A jardineira (com Humberto Porto)、Eva querida (com Luís Vassalo)、A Lapa (com Herivelto Martins)、Falta um zero no meu ordenado (com Ary Barroso)、Adeus, mocidade (com Roberto Martins)、Coitado do Edgard (com Haroldo Lobo)、Despedida de Mangueira (com Aldo Cabral)、Fica doido varrido (com Eratóstenes Frazão)等々。
どうだろう。こんな感じでいいのかしら、ねえ、ベネ!
Apr.13 2020
参考;Insutitute Moraes Salles – Pixinguinha
Casa do Choro – Benedito Lacerda
Benedito Lacerda, o Benê por Tamára Baranov
Almirante, “a mais alta patente do rádio
Pixinguinha IMS
Brasil Toca Choro
Música brasileira: O chorinho através dos tempos por Celso Rizzi
マカエ – ベネジット・ラセルダ空港
「ショーロはこうして誕生した」(オ・ショーロ)