シキーニャ・ゴンザガ

シキーニャ・ゴンザガ
Chiquinha Gonzaga
(Francisca Hedwiges de Lima Neves Gonzaga)
1847 Rio de Janeiro, RJ – 1935 Rio de Janeiro, RJ

 

はじめに

ピシンギーニャやジャコー。シキーニャと同時代ではカラッド、アナクレット、エルネスト。
彼たちが残した音楽を通して彼たちのことを語っても大きく外れることは無さそうです。
何しろ「音楽家である密度」が濃い人たちばかりですから。
ところがシキーニャの場合、「偉大な音楽家だった」と言うだけでは肝心なものを取りこぼしてしまいそうです。


シキーニャを語る資料の多くは「戦った人」、或いは「激しく生きた人」と紹介しています。
亡くなる直前にシキーニャが囁いた「充分に傷ついた」という言葉が時も空間も遠く離れている僕の胸にも突き刺さります。
時代、社会制度、ジェンダー、風土、慣習、なんやらかんやら、彼女の前に立ちふさがる幾つもの壁を唯一の武器「音楽の才能」でもって蹴破り、絶えず前へと進もうとした女性であったかのようです。
彼女にとり音楽とは足跡に零れ落ちたものであって、シキーニャには必須のものではなかったのかもしれません。(自分の人生を生き抜くことの方が重要だったとの意味です)

シキーニャ・ゴンザガ・サイトでは彼女を「先駆的な奴隷解放論者であり」、「抑圧的な家父長的社会への挑戦者であり」、「女性のために新しい職業を生み出し」、「スキャンダラスな結婚(離婚も)をし」、「ポルカ、タンゴ、ワルツが流行っていた第二王政時、偏見無くどんな音楽でも取り入れ作曲した」傑出した女性と紹介されています。

シキーニャが1899年に作ったカーニバル用マルシャ「オ・アブレ・アラス」を訳してみました。元々の詞は異なりますが、こちらの方がよりシキーニャの姿を彷彿させていそうです。

Ó abre alas
Que eu quero passar
Ó abre alas
Que eu quero passar

Eu sou da Lira
Não posso negar
Eu sou da Lira
Não posso negar


さあ、道をお開けなさい
私の邪魔をするんでないよ
さあ、二列に並んで迎えなさい
私がそこを通ります

私は竪琴
嘘なんかじゃない
竪琴の音が聞こえるでしょう
嘘なんかつかないわ

Ó Abre Alas – Dircinha & Linda Baptista – YouTube



生まれたのは

シキーニャ(フランシスカの愛称)が生まれたのは1847年。ドン・ペドロ二世の第二王政下でまだ奴隷制度が残っていました。
母親のローザは奴隷の娘であり、父親は軍人ジョゼ・バジレウ・ネヴェス・ゴンザガ。カシアス公爵に連なる名門家系の出身です。
ジョゼはローザとの関係を親族に認めさせることに困難は伴いましたが、シキーニャ以下三人の兄弟を正式に自分の子供として認知し育てます。
ジョゼは大都市に住む上流階級の常としてまたサロンの花とするべくシキーニャに幅広い教養と礼儀作法を身に着けさせました。それは、読むこと、書くこと、計算できること、キリスト教の教義の習得、そして流行のピアノ演奏です。
1863年シキーニャが16歳になるとジョゼは8歳年上の実業家リベイロ・ド・アマラルと結婚させます。
二人の間に3人の子供を授かりましたが、シキーニャがこの結婚に満足していたとは思えません。
シキーニャはピアノの前から離れず、音楽嫌いのリベイロはピアノに夫の地位を奪われると嫉妬し怒り狂います。
1868年当時は悲惨なパラグアイ戦争中であり、シキーニャは渋々夫の旅行(戦争のための備品を船で輸送する事業)に同行します。旅行中かその後直ぐにか、夫より「音楽を取るか自分を取るか」と迫られ、「ハーモニーが無い生活は願い下げだ!」と結婚を終える決意をしました。

出奔

18歳で夫を捨て、どうやら前から恋仲だった技術者ジョアン・バスチスタ・デ・カルヴァーリョと人生を共にする為に家を出ます。
このスキャンダラスな行為は夫より「家庭放棄」と「不倫」でカトリック裁判所に訴えられ、シキーニャは長女と次男の親権を失い、また実家からは彼女は死んだ者として扱われ、母親に会いに家に来ることも拒絶され、家族の縁を切られます。
その後、恋人ジョアンとの間に女の子を産みますが、今度は優男ジョアンの女癖の悪さにシキーニャは再び男との関係を切り捨てました。

女性音楽家として

愛への絶望、家族への悪口、社会からのモラルへの挑戦者としての非難、不愉快な人間との付き合い、そんな中、シキーニャは幼い長男を連れて独りで生きて行かなくてはなりません。
残された手段はピアノです。
当時、女性のプロフェッショナルなピアニストというのは例がなく、世間的には想像外の魔界の産物です。しかも弾く曲は例の「下品な街のダンス音楽」です。(ピアニスタではなく、差別的な呼称、ピアネイラと呼ばれたこともあるようです)
この荒波に抗う為に必要なのものは、優れた才能、固い決心、そして勇気です。シキーニャにはすべて揃っていました。
ピアノの個人教師としてそして盟友ジョアキン・カラッド(カラッドは解放奴隷の子供でもありました)のバンドの「ショーロ・カリオカ」のピアニストとして音楽の世界で生きる道を探し始めます。
1869年カラッドはこんなシキーニャとの友情の証にポルカ「ケリーダ・ポル・トードス」(みんなの愛しい人)を捧げました。 
1877年30歳の時にリオデジャネイロのメインの音楽シーンにシキーニャが登場します。「アトラエンテ」の成功です。
成功には責任が伴います。エディター兼ピアニストのアルツール・ナポレオン・ドス・サントスの元で更に腕を磨き、また劇場用の作曲も手がけました。
1885年にはレビュー「コルテ・ナ・ロッサ」をインペリアル劇場で上演します。しかし社会は旧態依然、ポルトガル語で指揮者を意味する「マエストロ」に対する女性形の「マエストラ」という言葉が無く新聞の案内欄に混乱を生じさせました。
その後もレビュー作品は数十篇書き下ろしています。
また1914年には大統領官邸パラシオ・カテッテでタンゴ、「コルタ・ジャッカ」が大統領夫人ドナ・ナイール・デ・タフェにより、当時は「下品な楽器」と考えられていたギターで披露されました。この時も「下品な音楽」を「上品な階層」に「上品な場所」で初めて演奏されたとスキャンダルめいた評判を呼びました。

奴隷解放論者として

ブラジルは世界で最後まで奴隷制を維持した国でした。奴隷が正式に禁止されたのは1888年(明治21年)3月の「黄金律」によってです。
(明治25年に始まる日系移民がこの奴隷解放の余波であったことは様々な形で語られています)
シキーニャは自身の出自の所為でもあったのかカラッドや他のショーロ仲間の苦しみを知っていた所為なのか、熱心な奴隷解放論者でした。リオの家々を一軒一軒回り自分の楽譜を売って「奴隷解放同盟」の資金に回したり、友人であり音楽仲間でもあるジョゼ・フラウタの奴隷解放証書を買い取るなど口先だけではない活動家でした。

著作権保護者として

1910年代、作曲家として名声や劇場での成功に伴い、自身の作が許可も無く出版されたり、上演されたりするようになってくるのに苛立ちを覚え、1917年ブラジルでの最初の著作権保護団体 Sociedade Brasileira de Autores Teatrais (Sbat)の設立に主体的に参加しました。

最後に

1899年シキーニャが52歳の時、16歳の少年に出会います。ジョアン・バチスタ・フェルナンデス・ラジェ、後年のジョアン・バチスタ・ゴンザガです。二人は恋に落ち、世間の目を眩ませるため数年間ポルトガルへ逃避します。親子と身分を隠してです。ジョアンは1935年シキーニャが最期の時を迎えるまで忠実な伴侶としてつかえました。(シキーニャを心から愛する人がいたと知りほっとしました。シキーニャの魂に平安を!)


 




参考資料:Chiquinha Gonzaga.com Biografia
Dicionario Cravo Arvin
Casa do Choro
UOL Chiquinha Gonzaga

ショローンとその時代

2019 Sep.05