ガロート
(Garoto)
(本名 Anibal Augusto Sardinha)
(1915 サンパウロ – 1955 リオデジャネイロ)
ガロートは指で弾く弦楽器なら何でもできたと伝わっています。ギターを初めとし、テノール・ギター、バンジョー、電気ギター、チェロ、ウクレレ、ポルトガルギター、カバキーニョ、バンドリン、そしてピアノも弾いています。
ガロートは音楽一家の出です。
父親はポルトガル・ギターを弾き、兄弟はそれぞれ、バンジョー、ギターとボーカル。彼以外はすべて、ポルトガルで生まれたポルトガル移民一家でした。
11歳までには兄弟たちからバンジョーを習い、37年18歳になるとサンパウロ芸術学校(Conservatório Dramático e Musical de São Paulo)に入学し和声と作曲を学び始めましたが長続きできませんでした。もっとも15歳の頃よりプロフェショナルな演奏家として活躍していましたが。
1939年25歳前にカルメン・ミランダのバックバンド(Bando da Lua)と共に(ポスターには、カルメン・ミランダ、ガロートそしてバンド・ダ・ルアと表記)渡米しました。この期間(39年10月-40年7月)は短くとも彼に大きな影響を与えました。当時のアメリカはパリに代わって大きな存在になっていたこともこれを助けたと思います。
この頃ヨーロッパやアメリカで活躍していたミュージシャンというと、コールマン・ホーキンス、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、そして世界一(ウディ・アレン談)のジャズギタリスト、ジャンゴ・ラインハルト等々。
帰国後、43年より52年に渡ってラジオ・ナショナル(Rádio Nacional)で番組を持っていたラダメス・ニャタリのために演奏しています。
ラダメスがこんなコメントを残しています。
「私はショーロを吹こうとフルートを買っていました。偶々サンパウロ400年記念曲で得たお金でガロートは私の牧場隣の敷地を買い、まだ家が完成する前から引っ越してきました。夜になると彼がギター、私がフルートで合奏をやっていましたが、私は『世界で一番優れたギター演奏家』の最悪のフルート伴奏者でした」
53年、サンパウロ400年祭でレコード”São Paulo quatrocentão”が70万枚以上売れ、長い間売り上げの記録を保持しました。上記のラダメスのコメントはその直後のことと思われます。
閑話休題、51年にはシキーニョ・ド・アコーデオン(Chiquinho do Acordeon)、ファファ・レモス(Fafá Lemos)とでトリオ・スルジーナ(Trio Surdina)を結成しました。このトリオは、ギター、アコーディオン、バイオリンと言う珍しい編成で、53年にDuas Contasを録音しています。これは作曲・作詞ガロート、ボーカルをファファ・レモスが担当しました。
(Surdina、本名のSardinhaからの洒落ですかね。調べてませんが)
同じ年、ラダメスによる「ギターと小編成オーケストラによる小協奏曲2」(Concertino no 2 para violão e orquestra de camara)がリオデジャネイロの市立劇場で開催されましたが、これがこの劇場の最初のギター演奏になりました。(クラシック畑から見たギターという楽器の評価の問題です)
55年39歳でガロートはヨーロッパツアーを計画中に心臓発作で世を去りました。
ディショナリオ・クラボ・アルビンには「ガロートは疑いも無くギターの技術的な革新者であり、上品なハーモニー、ブラジル的であり現代化されたメロディを併せ持つ偉大な作曲家、演奏者の一人でした」と記されています。
2021 May 19 再編集