ジャコー・ド・バンドリン

ジャコー・ド・バンドリン
Jacob do Bandolim
(本名 Jacob Pick Bittencourt)
1918 Rio de Janeiro, RJ – 1969 Rio de Janeiro, RJ


ジャコー・ド・バンドリンはピシンギーニャと並ぶ現代ショーロ界の巨星です。
生まれながらの天才ピシンギーニャ。
約20年歳下のジャコーは様々な顔を持つ多面体音楽家と言えそうです。(あまり上手い比較ではないとは自覚しています)
ジャコー・ド・バンドリン協会に記載されているジャコーのバイオグラフィが分かり易くて面白かったので掻い摘んで訳しました。(プラス他の資料も少々混ぜています)

バンドリン

ジャコーはエスプリット・サント州出身の父親とポーランド出身の母親の間の一人っ子として生まれ、リオ・デ・ジャネイロ市ラパ地区ジョアキン・シルヴァ通りの家で大事に育てられました。
12歳、ジャコーは近所のフランス人が弾くバイオリンに魅せられて一台のバイオリンを母親からプレゼントされます。でも弓がどうしても使えず、ヘアピンで弾くのですから当然楽器は無残なことに。これに母親の友だちが「ジャコーにはバンドリンよ」と勧めると今度はバンドリンがジャコーの手元へやってきました。これが13歳の時です。
先生につかず総て自己流、母親の鼻歌や通行人の歌声のメロディを繰り返して覚えました。

ショーロに出会った。

1931年、窓からルイス・アメリカーノの「エ・ド・ケ・ア」が聴こえてきました。近所に住むレコード会社RCAヴィクターのディレクターの家から流れてきたのです。
「衝撃的だった」とジャコーは後に語っています。
毎日の生活は学校と家の往復だけ。時々楽器店カーザ・シルヴァでのバンドリンの試し弾きが息抜きでした。
ある日ジャコー少年が楽器店でバンドリンをいじっているとギターの修理を頼みにやってきた紳士から声をかけられ名刺を渡されました。
「君、面白いね、今度ラジオ局に遊びに来なよ」
名刺を見ると事もあろうにあのルイス・アメリカーノじゃあありませんか。ジャコーは有頂天になってギターを弾く友だちと一緒にラジオ局を訪ねますが、まだまだ経験不足なのか冷たくあしらわれ、怒ったジャコーは名刺を破り捨てました。

バンドリニストとして

1934年16歳。ラジオ局グアナバラで番組公開演奏大会がありジャコーは最高点を取りました。審査員はオレステス・バルボーザ、フランシスコ・アルヴェス、ベネジット・ラセルダの面々。
この時バンドリンを仕事にしようと決心しました。
それからは殆ど総てのラジオ局に出演します。(カジュチ、フルミネンセ、グローボ、マイリンク・ヴェイガ、マウア、エドカドーラ、クラブ・ド・ブラジル、ソシエダーデ等々)ラジオ・マウアでは自分の番組も持つようになりました。

結婚、貧困、考える。

1940年22歳。ジャコーはアジリア・フレイタスと結婚し、翌年長男、続いて長女が生まれました。しかし不定期のラジオ出演だけでは家族を養えません。これを見かねたサンビスタのドンガと妻のザイラがジャコー一家を援助します。長女エレーナによると母親アジリアが「あの二人は私たちを何回も飢えから救ってくれた」と口癖のように言っていたとのことです。
自身も裁判所に勤めていたドンガはジャコーに「自分の家での勉強会(サラウ)を続けるべきだ。大物歌手や新人歌手の後ろで伴奏している時間はもったいないし、レコード会社に対してもへいこらしたくもないだろう。その為にも正業を持ちなさい」と勧めます。
ジャコーは経験豊かな先輩の意見に頷き、裁判所書記の試験を受け見事合格しました。当然バンドリンへの情熱はもっと高まりました。

サラウ

1949年当時ジャコーはジャカレパグア地区に住んでいました。彼の家で開かれるサラウにはミュージシャンだけでなく政治家、芸術家、評論家も集まりました。
常連ミュージシャンの顔触れは、ドリヴァル・カイミ、エリザベッチ・カルドーゾ、セルベイ・ドレンスキー、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ、エルミニオ・ベロ・デ・カルヴァーリョ、カニョート・ダ・パライバ他。
エルミニオによればこのサラウは「大学の公開講座」のようであったとのことです。

レコード録音

1940年代はベネジット・ラセルダのコンジュントの時代であり、ジャコーは裁判所の仕事と音楽の仕事とで時間を分けていました。音楽方面はラジオでの新人歌手の伴奏が主な活動でした。
1947年、ジャコーは初めてのソロのレコードを出します。78回転の時代でA面が自身の「トレメ・トレメ」、B面がボンフィジリオ・デ・オリヴェイラの「グロリア」でした。この後52枚の78回転のレコード、12枚のLPを出すことになります。また1950年3月から1960年3月の間はレジョナル・ド・カニョートと組んでいました。

エポカ・デ・オウロ

しかし1950年代の終わり頃になるとカニョートのレジョナルは大物歌手たちから引っ張りだこになって充分な練習時間が取れず、ジャコーに不満が溜まってきます。
ジャコーの希望は、必要な時に集まって好きなだけ練習するグループを作ることでした。これに応えてジャカレパグアのジャコーの自宅で毎週土曜日に開かれるサラウに集まったのが、ジノ・7・コルダス、セザール・ファリア、カルロス・レイテ、ジョナス・シルヴァ、ジルヴェルト・ダ’ヴィラです。
このメンバーで1961年、1962年にレコードを収録し、1967年ジャコーはレジョナルという古風な呼び方を捨て、バンド名を「エポカ・デ・オウロ」と名付け「ヴィブラソエンス」を収録しました。この時はジョルジーニョ・ド・パンデイロも参加しています。これが伝説のグループの誕生です。
面白いのはジャコーが公務員であるのは上記の通りですが、エポカのメンバーも5人の内3人、ファリア、カルロス、ジョナスが公務員であったことです。

レトラトス

1956年から58年にかけてラダメス・ニャタリは組曲「レトラトス」(肖像画)を作曲しました。この組曲はブラジルのインストルメンタル・ミュージックの四人の巨人(ピシンギーニャ、エルネスト・ナザレ、アナクレット・デ・メデイロス、シキーニャ・ゴンザガ)に捧げられ、編成はバンドリン+オーケストラ+コンジュントです。一曲一曲それぞれの音楽家の魂を映し出すこの組曲を演奏する為には繊細であり音楽を深く知る必要があります。
ラダメスはバンドリンにジャコーを指名しました。
ジャコーは根っからの耳で覚える演奏家でリハーサル中心主義者でしたが、49年当時から自分の音楽性を深める為に音楽理論を学ぶ必要性を感じていました。
「レトラトス」を前にジャコーはシキーニョ・デ・アコーデオンの助力について語っています。50年代の終わりラジオ・ナショナルでラダメスの指揮でシキーニョによる「レトラトス」演奏はジャコーに大きな刺激を与えました。ジャコーは更に研究を続け、64年2月にようやく録音が完成しました。
ジャコーからラダメスへの手紙が残っています。「カーニヴァルの間も家に引きこもって作品を読みつくし細かな部分まで分析しつくすのは興味深かったです」
ジャコーの音楽は新しい段階に踏み入ったのです。

リサーチャーとして

ジャコーは傑出したミュージシャンだけではなく資料収集家でありリサーチャーでありました。ナザレを初めとする作曲家の楽譜、ノート、レコード(蝋管を含む)、本、雑誌の切り抜き等、膨大な資料を残しています。これらは現在「ジャコー・アーカイヴ」としてMuseu da Imagem e do Som/RJ(MIS)に保存されています。

参考:Insutituto Jacob do Bandolim
O Chorinho atraves dos Tempos por Celso Rizzi
Casa do Choro
Dicionario Cravo Albin

ショローンとその時代

2019 Aug.15