2020年3月30日

ジャララッカとラチーニョ

Jararaca
(ジャララッカ)
(本名 José Luis Rodrigues Calazans  )
1896 Maceió AL-1977 Rio de Janeiro RJ

Ratinho
(ラチーニョ)
(本名 Severino Rangel de Carvalho)
1896 Itabaiana PB-1972 Rio de janeiro RJ

 120年位前のブラジルのセルタンの地に二人の赤ん坊が産まれました。
この後、二人は愚かで賢い人生を送ることになります。
愚かというのは自分の才能を活かす勇気を持っていること、賢いというのは自分の才能を知っているということです。
大抵の場合はどちらか片方しか持っていないか、両方持っていないかです。

二人とは、”Mamãe Eu Quero”で有名なジャララッカと”Saxofone Porque Choras”のラチーニョです。二人は稀しくも同じ年生まれ。1896年、19世紀の終わり。ピシンギーニャの一つ上です。
二人の軌跡を綴ったサイトには二人とも「貧困の内に忘れられたまま死んでいった」と書かれています。また二人の最盛期は30年代40年代で60年以降はその音楽も馬鹿話も時代遅れになっていったとも書かれています。
小林秀雄によれば「死んだ人は生きている人よりその人となりがはっきり見えてくる」らしいのですが、二人の人生をその死から俯瞰するのは何だか可哀想です。ですから最初から二人を追っていきます。

先ずはジャララッカ。本名はジョゼ・ルイス・ロドリゲス・カラザンス。父親は詩人で先生。父親の影響により兄弟もギターやセレナータ弾きで彼自身も8歳でギター(セルタンのギター)を得て直ぐに冗談音楽を始めました。アラゴアスの田舎町ピラールに住み、ミナスジェライスとか各地を旅する牧童たちにカンガセイロの逸話や馬鹿話や悪人善人の小話等々を毎日聞いていたことが後年に役に立ったようです。
1917年当時新進気鋭の資本家デミロ・ゴウヴェイアが経営する繊維工場リーニャス・エストレイラで働いていました。この工場で驢馬の荷馬車引きだったのがヴィルグリーノ・フェレイラ、つまり後年のカンガセイロのチャンピオン、ランピオンです。この当時ランピオンはまだランピオンでなく(カンガセイロになっていなく)デミロの暗殺とはかかわりが無いようですが、ジャララッカの育った環境が偲ばれます。
その後鉄道警察に入ったりしていましたが、1919年結局やりたいことをやりたくて、つまり音楽をやりたくてペルナンブッコ州の首都レシフェに向かいます。

注;カンガセイロとは当時の大農場主(コロネル)があたかも王のように支配していたブラジル東北地方の社会からスピンアウトした元農民とか使用人とか最下層の者たちによる盗賊団の呼称。その中でもランピオンは一番人気で何回も映画の主人公として登場しています。妻のマリア・ボニータは「イパネマの娘」に次ぐ有名なブラジル女性です。彼らの服装は革製の庇を折り曲げた帽子、カービン中を抱え、ピストルを下げ、刃渡りの長い包丁を差しといった具合で、武器以外はセルタンを歌うミュージシャンの起源というか同じというか。

ラチーニョ(本名セヴェリーノ・ランジェル)はペルナンブッコ州の奥地イタバイアーナの生まれ。1歳になる前に母親を失いましたが父親側の兄弟が25人いたとのことです。
ジャララッカの生誕地ピラールとラチーニョのイタバイアーナをグーグル・マップで訪ねてみましたが、典型的な貧乏な地方の町で、所謂シンプレス(何もない)な町のようです。

ラチーニョは子供の頃からイタバイアーナの楽団に参加し1914年18歳でレシフェに出ました。レシフェではシンフォニック・オーケストラでオーボエ担当でしたが、これ以外にもトランペット、サキソフォーンも吹き、地元の職業学校で音楽の授業も持っていました。

ラチーニョ(子ネズミ)というあだ名は当時流行していたポルカ「ラット・ラット」という曲を何時も演奏していたのでいつもまにかラチーニョと呼ばれるようになったということです。

1919年25歳の時、二人は地元の音楽家が集っていたフィリント・デ・モラエスの家で知り合い揃ってカーニヴァルのブロッコ・ドス・ボエミオスに入ります。
1921年仲間を誘って「オス・ボエミオス」を結成。レシフェのモデルノ劇場でピシンギーニャの率いるオイト・バツータスの前座としてエンボラーダ” Espingarda Pa-pa-pá”(by ジョゼ)を演奏しピシンギーニャに気に入られました。これが後にリオに出るきっかけとなります。
バンドの名前をツルナス・ペルナンブカーノスに変え、メンバーを現地でよく行われていたように動物の名前で呼び合うようにしました。ジョゼはジャララッカ(ヘビ)になりました。ラチーニョはそのままラチーニョ。ノルデステの各州を巡業して回っていました。

1922年ピシンギーニャの招待でリオのブラジル独立100周年記念祭に参加し、そのまま(カンガセイロの衣装で)ベイラ・マール劇場でジャララッカとラチーニョの曲を演奏して評判を得、シネ・パライスの待合室での演奏にこぎつけます。(この年ジャララッカのあの「エスピンガルダ・パパパ」をオデオンで収録しています)

この後バンドはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスでの興行に出発しました。どういう訳か(想像はつきますが)グループは現地で解散、ジャララッカとラチーニョは相談してお隣(川向う)のウルグアイの首都モンテヴィデオでデュプラ・ベン・ブラジレイラを結成しました。これがこの二人組の初めになります。(この後何回も解散、再結成を繰り返します)
その後二人組はエンボラーダ、マルシャ、ショーロの演奏と合いの手の入った馬鹿話で人気を得、1927年サンパウロのプラサ・ダ・セにあるサンタ・エレーナ劇場を皮切りに全国の劇場を回ります。

馬鹿話の例
ジャララッカ「君は医学を勉強したそうだが人間の頭蓋骨は幾つに分解できるか知っているか?」
ラチーニョ「まあ、それはフットボールで何回ヘッディングしたかによるな」
(私には何処が面白いか分からない…)

1929年二人組の最初のレコードがオデオンから出ます。同じ年二人の曲をフランシスコ・アルヴェス、ジルシーニャ・バチスタ、エミリア・ボリバなどに歌われています。またこの年名前を変え(デュプラ・カイピーラ・パウリスタ)サンパウロ州郊外を巡業しています。衣装もそれに合わせ革製のカンガセイロ帽から鍔の短いカイピーラ帽に変えています。(多分半分冗談でしょうが)

1930年ジャララッカは「セルトンから」を出版、ラチーニョはカイピーラのまま南の州へ旅を続けました。リオに帰ったジャララッカはルペルセ・ミランダを迎えてバイアーナを録音し、ラチーニョはジョン・ペルナンブッコとレコード(私の許嫁)を出しています。この年、ラチーニョはこの後ジャコー・ド・バンドリンやアベル・フェレイラ他何人ものミュージシャンに取り上げられることになる”Saxofone Porque Choras”を発表しました。

1931年暮れ、二人はデュッケ、ピシンギーニャたちと共にブラジル音楽へのサポートの為に「カーザ・ダ・カボクロ」を設立しました。

1936年あの想い出深いアルゼンチンにデュッケらと共に巡業、ブエノスアイレスの中心コリエンテス通りでの興行は劇場を満員にさせました。

1937年、ジャララッカは「ママイ・エウ・ケーロ」を出しました。(ヴィセンテ・パイヴァとの共作)。この曲はリオのカーニヴァル史上最高の成功を治めます。またアメリカでヒットした最初のブラジル曲でもあります。ビング・クロスビーが歌い(英語版)、カルメン・ミランダが1940年映画セレナータ・トロピカルで歌いました。
これ以外にも二人は数々のレコードを出していますが、39年からはラジオ出演やカシノ・ウルカでのショーにも進出しています。

1946年、大統領選挙の年、ジャララッカはあのママイ・エウ・ケーロのパロディを作り共産党を応援しました。ジャララッカは本物の共産党員だったのです。
1955年ラジオ・ナショナルに「ジャララッカとラチーニョ」という冠番組が始まりました。
1964年、軍事革命が起こります。軍により共産党員であり、政治家ルイス・カルロス・プレステスの友人である理由でラジオ・ナショナルを解雇されます。

1972年にはラチーニョが、継いで1977年にジャララッカが「貧乏で世に忘れられたまま」この世を去りました。彼たちに拍手を送っていたお客たちも同じように歳を取っていたでしょう。
新しい劇場が建てられ、新しい出し物がかかり、新しいお客が集まります。そこには新しいジャララッカやラチーニョが舞台を賑わせています。
「日の下に新しきもの無し」です。変わっていくのが変わらないと言ったのは鴨長明。諸行無常の鐘の音は”Sons de carrilhões  por João Pernambuco”でしょうかね。

Mar.30 2020

参考:Insutituto Cultral Cravo Albin: Musica Popular Brasileira
Casa do Choro Ratinho
Casa do Choro Jararaca
Boa Música Brasileira
Lampião aceso: Delmiro Gouveia

ショローンとその時代