Luperce Bezerra Pessoa de Miranda
ルペルセ・ミランダ
1904 Recife, PE – 1977 Rio de Janeiro, RJ
ジャコー・ド・バンドリン協会の顧問セルジオ・プラタ(Sergio Prata)によると、20世紀初頭までバンドリンという楽器は主に女性が演奏するものと考えられ、ショーロでは伴奏用としてのみ使われていたのを、ルペルセによってこの楽器の地位が引き上げられソロ楽器としても認められるようになったとのことです。
同じバンドリニストとして、ジャコーと比較されるのは仕方ありません。
演奏の違いについては、セルジオ・プラッタ自身がジャコーはピュアーで情感的な音質を追求していた一方、ルペルセの音質はアグレッシブであったと記しています。
ルペルセはペルナンブッコ州のレシフェで生まれました。1914年生まれのジャコーとは丁度10歳の違いになります。
家族に音楽家がおらず自身も音楽を本業にしたことがないジャコーに比べると、父親も10人の兄弟もミュージシャンであったルペルセは生まれた時から死ぬまでプロの演奏家でした。
その生涯の業績に対し、映像音楽博物館よりブラジル大衆音学士号を授与されています。
26年にレシフェでツルナス・ダ・マウリセイラ(Turunas da Mauriceira)を結成しました。このバンドは27年にルペルセ抜きでリオのオデオンで20曲の録音しましたが、内3曲のルペルセの曲が28年のカーニバルでヒットしました。(ジャコーの最初の録音は41年)
この成功に自信を付け、27年中にレシフェでヴォス・デ・セルタン(Voz de Sertão)をギターのメイラ等と結成しリオに渡ります。ここでチュチ(Tute)と知り合い、”Pra frente é que se anda e Alma e coração”を録音し、大成功を収めます。
この前後からはラジオの時代とも重なり、ラジオ・クラブ・ブラジル(Radio Clube do Brasil)、ブエノス・アイレスのラジオ・エル・ムンド(Radio El Mundo)、リオのラジオ・マイリンキ(Radio Mayrink)、 ヴェイガ・ラジオ・ナショナル(Veiga Radio Nacional)に出演したり、チュチのバンドで当時のビッグスターたち、カルメン・ミランダ、フランシスコ・アルヴェスの伴奏を務める等の活躍をしました。
1936年に出版されたアニマル著「オ・ショーロ」にも「ラジオでルペルセを聴いた!最高!」と記されています。
考えればルペルセにはこの時代のショローンの特徴(ノルデステ出身、レジョナル結成、有名歌手の伴奏と録音、ラジオ出演など)が全て揃っています。
46年に故郷のレシフェに戻りましたが55年にドイツへの演奏旅行に参加し、その後はリオに永住し様々なLPを作成しこの地で亡くなりました。
ダニーロ・ブリットがルペルセ・ミランダの曲をルペルセのように弾くのは難しいッゼ!と言っています。興味のある方は彼のユーチューブへ。
2021 jul.07 改訂
参考:Dicionario Cravo Albim
LUPERCE MIRANDA, o PAGANINI do bandolim. Danilo Brito