オタヴィオ・ドゥットラ Otávio Dutra (又はOctávio Dutra)
1884 Porto Alegre – 1937 Porto Alegre
オタヴィオはリオグランデ・ド・スルを代表する作曲家です。
ブラジル共和制(1889年)以降の大統領として一番毀誉褒貶が激しいのはジェツリオ・ヴァルガスではないでしょうか。ジェツリオはオタービオ・ドゥットラと同じリオグランデ・ド・スル生まれで、オターヴィオの2才上です。
1917年オタヴィオは、ポルトアレグレのカリス都市鉄道会社(Carris Urbanos de Porto Alegre)のイギリス製の新しい路面電車(恐らく「デュッケ通り」)を見て、有名な「路面電車の中で作られたショーロ」(Choro composto em um bonde)を作曲しました。
一生の殆どをリオ・グランデ・スルの首都ポルト・アレグレで過ごしたオタヴィオにとって、「ガウショ(リオグランデスル出身の別称)」であることが、ある意味を与えていたと思います。
(と言っても「そこに何かあるだろう」というぐらいの極めて浅い好奇心ですが)
20世紀初頭のポルトアレグレでの音楽の第一人者として数えられ「ガウショ」に初めてバンドリンとギターをもたらしたとされています。
15才で「第一ワルツ」を作曲し、1904年までに数曲のワルツ、ポルカを作り、1910年後年ラダメス・ニャタリも学んだポルトアレグレ音楽学校に入学し対位法と和声を学びました。また同年から37年まで音楽教室を組織し運営していました。
13年この音楽教室の優秀な生徒と話し合いグループ・テロール・ドス・ファゾエンス(Terror dos Facoes)を結成し、リオのオデオンから数曲レコード録音をしており、エンリッキ・カゼスによれば10年代の残されたレコードの内でも秀でたものの一つだとの事です。
このファサオン(facao)とは当時の軽口で「下手な演奏家」の蔑称でした。これはオタヴィオ自身はギターやバンドリンの名手でしたが、臆病な生徒達を人前で演奏させ度胸をつけさせる為に命名したようです。
数500にも及ぶ曲をつくりましたが著作権がまだ弱い時代、1915年にリオデジャネイロの国立図書館著作権担当でエジソン出版に譲渡されていた30曲の保護を求めています。
20年代にはポルトアレグレのカーニバル・第一ブロックの(Tigre ,Batutas)の指導者でした。
21年のカーニバルには自分のTigreとBatutasがライバルと交差点で出会ったとき、お互いの即興でサンバを歌いあった(勿論相手を茶化して)とのエピソードが残っています。
ボヘミア的生活と友人への助力、自分の家を持つことへのこだわりと節約、そして著作権料の不払いと経済的には苦しかったようです。
「路面電車の中で作られたショーロ」から丁度20年後の37年ににポルトアレグレで亡くなりました。
参考:Insutituto Cultral Cravo Albin: Musica Popular Brasileira
Casa do Choro Octávio Dutra
ポルトアレグレ市ホームページ