2018年9月9日

ピシンギーニャ



ピシンギーニャ
Pixinguinha (1897-1973)
本名:Alferdo da Rocha Viana Filho

1897 Rio de Janeiro, RJ –  1973 Rio de Janeiro, RJ

 

 

アンドレ・ジニス(André Diniz)著「ショーロの暦」(Almanaque do Choro)の第2章6ページ全部!がピシンギーニャだけに当てられています。
(第1章は11ページ。ショーロの誕生から舞台のレビューまでの歴史とカラッド、シキーニャ、アナクレット、エルネスト等のショローンの紹介と全部合わせて11ページ!!!)
(これはショーロにおけるピシンギーニャの比重を他人の言葉を利用して言いたかったわけで、これが絶対評価ではないのですが、ピシンギーニャへの愛情にメジャーをあてられるとしたら(相対的に言っても)その位かなと)

人柄、曲、フルーティストあるいはサックスプレイヤーとして、どこを取り出しても愛されるピシンギーニャは19世紀の終わりに父Alfredo da Rocha Viana と母 Maria da Conceicaoの間に14男!!として生まれました。
誕生日の4月23日はショーロの日に制定されています。

父アルフレッド(ピシンギーニャも同じ名前です)は8部屋ある下宿屋ヴィアンナを経営しており、アルフレッドの音楽好きからこの下宿屋には町の音楽家が何人も住んでいて年がら年中ホーダ・デ・ショーロをやっていました。
住人の一人、アナクレットの楽団員イリネウ・アルメイダがピシンギーニャに音楽の手ほどきしたらしいのですが、イリネウ本人はピシンギーニャが勝手に一人で上手になったと言っていると上記アンドレ・ジニス談。
(ピシンギーニャというあだ名は元々ビシンギーニャだったらしいのですが由来は本人も分からないとのことです)

少年期からその才能を見出されバンド(Oito Batutas 8本の指揮棒)を結成しパリ公演を行ったり(1922年)、黒人バンドとしては初めてリオデジャネロ・セントラル劇場で演奏したりし成功を納めました。(パリ公演前のオイト・バツータスにはジョアン・ペルナンブッコもいた)

しかし、この成功を以ってしても金に困っていたらしく、1945年に折角購入した家の代金が払えず困っているところをフルート奏者ベネジット・ラセルダに助けられました。対価はその時はどんな価値を産むか分からなかった彼の曲のクレジットのクレジットです。
ピシンギーニャはフルートをサックスに持ち代え、ベネジットとのデュエットを組みます。
この時のピシンギーニャの低音部のコントラ・ポント(対位法)が1911年に録音されたChoro Cariocadeでのイリネウ・デ・アルメイダ(オフィクレイドの演奏)のコントラポントの影響であるとカーザ・デ・ショーロで紹介されています。
二人の演奏した(ピシンギーニャの作曲した)曲は 1×0, Sofres Porque Queres, Ainda Me Recordo, Sedutor, O Gato e o Canário, Descendo a Serra, Os Oito Batutas, Urubatã, Ingênuo, Proezas de Solon, Devagar e Sempre等々。
お陰でベネジットは飛行機を所有する程金持ちになり、ピシンギーニャは永遠の名声を残しました。

1964年にハートアタックで20日間程入院していましたが、この時に作られた曲は「Fala Baixinho 静かにしゃべってくれ」、「Mais Quinze Dias もう後15日」、「No Elevador エレベーターの中で」、「Mais Tres Dias もう後三日」、「Vou Para Casa 家に帰る」などです。
何となくサッカーの神様ペレのにも似た人の好さ、のんびりさ加減、自己戯画、ユーモアが感じられます。

 

と、ここまで書き綴ってきましたが、何と言うか、冒頭に戻りますが、人柄、演奏、曲、どれをとっても「私のピシンギーニャ」です。
ピシンギーニャについては日本語でもアクセスできるサイトは数多くあります。詳しい事蹟はそちらに譲ります。

 

参考:Casa do Choro
Insutituto Cultral Cravo Albin: Musica Popular Brasileira
Almanhaque do Choro

 

ショローンとその時代