ピシンギーニャ


ピシンギーニャ
Pixinguinha (1897-1973)
本名:Alferdo da Rocha Viana Filho

1897 Rio de Janeiro, RJ –  1973 Rio de Janeiro, RJ

評論家で歴史家のアリ・ヴァスコンセロスの言葉が残っています。
「『ブラジル・ポピュラー・ミュージックの全てを15巻で書け』と言われても『それでは足りない』と思うでしょう。しかし『一言で』と言われたら『ピシンギーニャ』と答えればよいのです」

アンドレ・ジニス著の「ショーロの暦」(Almanaque do Choro)では、第2章6ページ全部がピシンギーニャだけに充てられています。
(ちなみに第1章は11ページ。ショーロの歴史とカラッドシキーニャアナクレットエルネスト等の大物ショローンの紹介と全部合わせても11ページ!!!)

人柄、曲、フルーティストあるいはサックスプレイヤーとして、どこを取り出しても愛されるピシンギーニャは19世紀の終わりに父Alfredo da Rocha Viana と母 Maria da Conceicaoの間に生まれました。(マリアはアルフレッドとの間に9人、最初の結婚で5人、合計14人の子供をもうけています。何処かでピシンギーニャは十四男と読んだ覚えがありますが、出典を思い出せない)
ちなみに、ピシンギーニャの誕生日4月23日はショーロの日に制定されています。

父アルフレッド(ピシンギーニャも同じ名前です)は電報局や電力局職員の傍ら、8部屋ある下宿屋ヴィアンナ(カツンビ地区にあった)を経営していましたがアルフレッドの音楽好きからこの下宿屋には町の音楽家が何人も住んでいて、年がら年中ホーダ・デ・ショーロをやっていました。(下宿人はイリネウ・デ・アルメイダ、トロンボーンのカンジーニョ、キンカス・ラランジェイラスヴィリアット、ネコ等)
住人の一人、アナクレットの楽団員イリネウがピシンギーニャに音楽の手ほどきしたらしいのですが、イリネウ本人はピシンギーニャが勝手に一人で上手になったと言っているとは上記アンドレ・ジニス談です。
(ピシンギーニャというあだ名は元々ビシンギーニャだったらしいのですが由来は本人も分からないとのことです)

少年期からその才能を見出されバンド(Oito Batutas 8本の指揮棒)を結成しパリ公演を行ったり(1922年)、黒人バンドとしては初めてリオデジャネロ・セントラル劇場で演奏したりし成功を納めました。(パリ公演前のオイト・バツータスにはジョアン・ペルナンブッコもいた)

しかし、この成功を以ってしても金に困っていたらしく、1945年に折角購入した家の代金が払えず困っているところをフルート奏者ベネジット・ラセルダに助けられました。対価はその時はどんな価値を産むか分からなかった彼の曲の共同クレジットです。
ピシンギーニャはフルートをサックスに持ち代え、ベネジットとのデュエットを組みます。
この時のピシンギーニャの低音部のコントラ・ポント(対位法)が1911年に録音されたChoro Cariocaでのイリネウ・デ・アルメイダ(オフィクレイドの演奏)のコントラポントの影響であるとカーザ・デ・ショーロで紹介されています。
二人の演奏した(ピシンギーニャの作曲した)曲は 1×0, Sofres Porque Queres, Ainda Me Recordo, Sedutor, O Gato e o Canário, Descendo a Serra, Os Oito Batutas, Urubatã, Ingênuo, Proezas de Solon, Devagar e Sempre等々。
お陰でベネジットは飛行機を所有する程金持ちになり、ピシンギーニャは永遠の名声を残しました。

1964年にハートアタックで20日間程入院していましたが、この時に作られた曲は「Fala Baixinho 静かにしゃべってくれ」、「Mais Quinze Dias もう後15日」、「No Elevador エレベーターの中で」、「Mais Tres Dias もう後三日」、「Vou Para Casa 家に帰る」などです。
何となくサッカーの神様ペレにも似た人の好さ、のんびりさ加減、自己戯画、ユーモアが感じられます。

ピシンギーニャについては日本語でもアクセスできるサイトは数多くあります。詳しい事蹟はそちらに譲ります。

re-redaction 2021 apr.24 

参考:ピシンギーニャ Casa do Choro
Insutituto Cultral Cravo Albin: Musica Popular Brasileira
Almanhaque do Choro
Pixinguinha 120 anos

ショローンとその時代