キンカス・ラランジェイラス
Quincas Laranjeiras
Joaquim Francisco dos Santos
1873 Olinda, PE – 1935 Rio de Janeiro, RJ
同時代に活躍していたサチロ・ビリャール(1869―1927)やジョアン・ペルナンブッコ(1883-1947)を掲載していながら、「オ・ショーロ」でアニマルが2章にわたってその死を嘆いたギタリスト、キンカス・ラランジェイラスの行跡をずっと調べていませんでした。
ラランジェイラスという不思議な名前は気になっていたのですが。
キンカス(本名ジョアキン)はペルナンブッコ州オリンダ生まれですが生後6カ月で家族と共にリオデジャネイロのラランジェイラス地区に引っ越しました。父親はギターを趣味とする大工でした。
1884年11歳の年に同じラランジェイラス地区にあったアリアンサ・テキスタイル工場で働き始めます。
これがあだ名の「ラランジェイラス」の由来とのことです。あっさり疑問は解決しました。
余談ですが(司馬遼太郎か?!)、この「アリアンサ・テキスタイル工場」” Fábrica de Tecidos Aliança”はリオ市内でも有数な大きな工場で地域に大きな影響力を持っていました。写真で見ると宮殿のような大きな建物です。
元々ラランジェイラス地区はセントロ地区とゾナ・スル地区の真ん中にありながら山に囲まれ交通が不便な地域でした。
そこで1887年にリオ市内で最初のトンネルをアリセ通り(セントロ方向)に開通させ、更にノーヴォ・ムンド丘を切り開き(ボタフォゴ海岸方向)フナリ通りとピニェイロ・マシャード通りを結びました。
1872年ジェネラル・グリセリオ通りに蒸気を使った洗濯工場が新設され、1880年にこの工場は二人のポルトガル人と一人のイギリス人に売却されました。
3人は工場を繊維工場に改築しました。これがアリアンサ・テキスタイル工場の始まりです。
この工場は地区唯一の工場という訳では無かったのですが(他にもビール工場等がありました)、地区の人口が増えるにつれ、町の様子も大きく変わりました。
工場は従業員の娯楽の為に社交場や映画館、芝居小屋を提供します。
フラメンゴ(フットボールチーム)だけでなく後にガフィエイラのチームになったエストダンチーナもパイサンデュー通りに結成されました。
ランショではアレピアードスやウニオン・ダ・アリアンサが工場の力添えで結成されています。
軍隊や工場付きの楽団が流行りだった時代です。
さて話をキンカスに戻します。
キンカスはこの工場のオーケストラに入り指揮者のジョン・エリアスの元で音楽を学びます。最初に手にしたのはフルートでしたが兄がギターを始めるとギターを手にします。
キンカスはすぐにギターの魅力の虜になり、ここに有能なモディーニャの若き伴奏者が出現しました。
ドン・ペドロ2世が追放され王制から共和制にかわった1889年、キンカスは16歳で保健衛生局後のリオ市衛生局に転職し、1925年52歳に退職するまで働きました。
上司の言ではキンカスは「情熱と忠誠と親切さを併せ持った優れた職員」だったのとことで、サチロの鉄道会社勤めの無欠勤の逸話を思い出します。
いつからかセントロ地区カリオカ通りにあった楽器工房「カーザ・デ・レベッカ・デ・オウロ」に出入りし、当時の市内の主要なギタリストやミュージシャンと知り合い、学生の合唱団、弦楽オーケストラの結成を手伝ったり、ギターを教えたりと活動の幅を広げていきます。
また同じ通りにあった有名な楽器店「オ・カヴァキーニョ・デ・オウロ」のサラウの常連になります。ここでヴィラ=ロボス、カツロ・セアレンセ、アナクレット・デ・メデイロス、イリネウ・デ・アルメイダ、ジュッカ・カルッチ、ゼ・カヴァキーニョ、ジョアン・ペルナンブッコたちと仲間になり、またランショのアメノ・レゼダの主要なメンバーとして伴奏だけではなくソロ演奏家としても名を上げていきます。
まだギターが街場の下品な楽器と考えられていた時代です。
キンカスは「音楽として」のギター教室をジニジオ・アグアード、タレガのメソッドで開きました。
この「音楽として」という言葉(”por música” Casa de Choro)には「ボヘミアンの遊び道具としてではなく」という意味が含まれていると想像します。
生徒にはレヴィーノ・ダ・コンセイソン(ジレルマンド・レイスの先生)、ジョゼ・アウグスト・デ・フレイタスなどの名前が残っています。
1908年カツロの招きでゼ・カヴァキーニョと共に昔の王立音楽院、当時の国立音楽大学、今の国立リオ大学でカツロの歌の伴奏とソロ演奏を披露しました。
アニマルによればこの行為は「保守的でアリストクラティックな上流階級のサロンに初めてギターを持ち込んだ事件」であったようです。
ちなみにカツロは1913年に大統領官邸でギター演奏をし、ここでもスキャンダルを起こしています。(カツロの章を参照)
引退後の1926年にイパネマのナシメント・シルヴァ通りに引っ越し、ここで弟子や友人たちパトリシオ・テイシェイラ、ジョン・ペルナンブッコ、ぜ・カヴァキーニョたちと演奏を楽しんでいました。
キンカスが亡くなった1935年はアニマルが「オ・ショーロ」の出版の準備していた年でした。
アニマルはキンカスの死を惜しむと同時にリオの主要な新聞がこの偉大なるギタリストの死亡記事を載せなかったとその著書で二度非難しています。
キンカスは結婚したのか? 子供がいたのか? 何に喜び、何に悲しんだのか?
彼の個人的な生活に関する記録は見つかりませんでした。ただアニマルの話や残された写真からは真面目な人柄が伺えます。
いづれにせよ、100年後に地球の反対側の日本でそんなことも含めてなんやかんや言われることになるとは思ってもみなかったでしょう。
これもみんなキンカス・ラランジェイラスへのオマージュです。(リオの新聞への敵討ちです)
代表曲
Dores d’alma
Sabará
2021 Apr.05
参考:Dicionario Cravo Albin Quincas Laranjeiras
Casa do Choro Quincas Laranjeiras
Pesquisando Historia no Rio de Janeoiro
彩流社「ショーロはこうして誕生した」
ショローンとその時代 目次