ヴァルジール・アゼヴェード
Waldir Azevedo
1923 Rio de Janeiro, RJ – 1980 São Paulo, SP
ヴァルジールのキンキンして癖の強いカヴァキーニョに堪らなく魅かれる時があります。幼年期に聞いていた訳でもないのに妙に懐かしく感じるのはどうしてでしょうか。(個人的なことですが)
コンジュントにカヴァキーニョを、とお願いすると聞こえてくるのは多分ヴァルジールのバイヨンの響き…(客観的にもヴァルジールはカヴァキーニョの歴史において代表的なプレイヤーの一人です)
リオデジャネイロ生まれのカリオカ。(エンジェーニョ・ノーヴォ地区育ち)
7歳の時小遣いを溜めて買った小鳥を売ったお金でフルートを買い、10歳でジョアン・デ・バロ(João de Barro)のTrem Blindadoを町内で吹いたのがミュージシャンデビューです。
少年期にフルートからバンドリンそしてカバキーニョと楽器を変えていきました。
パイロットになる夢も持っていたのですが心臓病のため電気会社Lightに就職しました。
42年にラジオ局のコンクールに最高点で優勝するなどアマチュアとして音楽に関わっていましたが、プロになる機会をいつも伺っていました。
43年に念願がかないセザール・モレーノ・バンド(regional de César Moreno)に加わりプロへの一歩を踏み出しました。
45年新婚旅行でミゲル・ペレイラ(リオの北50kmに位置する山と清流、滝のある観光地)を訪れていた時、友人からラジオ局(Radio Clube do Brasil)の番組専属のジレルマンド・レイス楽団にカヴァキーニョの空きが出たとの電話を受けて急遽新婚旅行を中止しリオへ戻ります。
めでたく入団できました。
段々とメインを取るまでの人気者になり、47年に独立しました。
50年から11年間にわたってパーシー・フェイス楽団と共に世界中を回り、Brasileirinho、Pedacinhos do Céu、Delicadoなどのヒット曲を生み出しました。
70年にはラジオ局の芸術担当役員を引退してブラジリアに転居し、この地のショーロ・クラブ設立に助力し創立者の一人となっています。芝刈り機の事故で指を失いかけるほどの大怪我や愛娘の死により何年も人付き合いを避けていましたが75年に復帰します。
76年には LP “Minhas mãos, meu cavaquinho”を出しています。
79年の活動30周年記念コンサート(30年前の49年は自身最初のレコードになるカリオキーニャとブラジレイニーニョを発表しています)にはパウリーニョ・ダ・ヴィオラ以下(César Faria, Raphael Rabello, Ademilde Fonseca, Arthur Moreira Lima, Copinha, Braguinha)大勢のミュージシャンが駆けつけました。
80年57歳で新しいLPの準備中にサンパウロにて急死しました。
参考:Casa do Choro
Insutituto Cultral Cravo Albin: Musica Popular Brasileira
Clube do Choro de Brasília