ジレルマンド・レイス

ジレルマンド・レイス

Dilermando dos Santos Reis
1916 Guaratingueta, SP – 1977 Rio de Janeiro, RJ

サンパウロ州の田舎町ガラチンゲッタ(Guaratingueta)をボンフィジリオ・デ・オリヴェイラ
が出て行った2年後にもう一人の音楽家が産まれました。
(ガラチンゲッタは有名なノッサ・セニョーラ・アパレシーダ聖堂のあるアパレシーダ市の東に隣接したリオ寄りの町でサンパウロ市とのほぼ中間に位置します)

ジレルマンドはギター演奏者であった父親から手ほどきを受け、15才の時には町で一番のギター演奏者との評判を得ていました。
1931年ジョアン・ペルナンブコの友人で盲目のギタリスト、レヴィーノ・ダ・コンセイソン(Levino da Conceição)がガラチンゲッタで開催したコンサートを見てそのままレヴィーノの弟子となり助手としてレヴィーノの巡業にくっついて町を出ました。

33年一行がリオデジャネイロに到着すると、ジレルマンドは市街電車に乗って憧れのジョアン・ペルナンブコに会いに行き、一晩中ギターを弾きながら話続けたとのことです。
34年ジレルマンドはまだ18才でしたが、レヴィーノがカンポス(Campos)へ演奏旅行に行くと言って15日分のホテル代を渡してそのまま消えてしまいました。
残された少年ジレルマンドをジョアン・ペルナンブッコは助力したようです。20才に満たない年齢で楽器店バンドリン・デ・オウロ(Bandolim de Ouro)やギターラ・デ・プラッタ(Guitarra de Prata)でギターを教え始めました。
ジレルマンド自身はタレガ(Francisco Tarrega)の信奉者でタレガのメソッドを授業に応用していたようです。
彼の元からはボーラ・セッチ(Bola Sete)とニカノール・テイシェイラ(Nicanor Teixeira)が育っています。
またブラジリアを建設した大統領ジュセリーノ・クビシェッキ(Juscelino Kubitschek de Oliveira, 1902 -1976)の個人教授であったことも知られています。

音楽評論家のアラミス・ミラルシ(Aramis Millarch 1943-1992)は「ジレルマンドのギターはクラシック・ギターの演奏方法に似、幾分饒舌であるが彼自身はMPBには見向きもせず自分独自の1930年台のスタイルを変えなかった」と書いています。リオでは町の先輩ボンフィーリョ・デ・オリベイラに音楽理論を学んでいます。

自分をホテルに置いていったレヴィーノの元恋人、セレステと結ばれ最後まで一緒に暮らしました。またレヴィーノの曲(Canção Gaúcha, Caterete Mineiro)も録音していますので、少年時代都会の真ん中にひとり残されたことも上手に自分なりに解決したようです。

まだレコードが78回転だった時代、8年間に渡りソロ録音以外はいつもメイラとデュエットを組んでいました。70年代には歌手の伴奏としても多く仕事をしています。

作曲家としては100曲以上残しておりマゴアード “Magoado”(1941)が特に有名です。
ただ皮肉にも一番売れたレコードはジョアン・ペルナンブコの曲を録音したSons De Carrilhõesでした。

ラダメス・ニャタリの”Concerto no. 1 para Violão e Orquestra”はジレルマンドに捧げられています。

リオでの暮らしはバイオリン教室、ラジオ出演(Rádio Clube do Brasil, Rádio Nacional 1956-1969)や演奏、レコード録音で費やし、ギターのスタイルにも大きな変化も無く、クラシカルな原則に忠実で穏やかだったと記されています。

参考:Dicionario Cravo Albin
Crique Music Direlmando Reis

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