中川恭太 世界のショーロ!

中川恭太 世界のショーロ!

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2018年1月

中川恭太の紹介:ジャズピアニスト愛好家の子供として音楽のある環境に育ち、ブラジル音楽、特にヴィラ=ロボスを通じてショーロを愛するようになった。現在日本のミュージシャンと共にサキソフォニスタとして活躍中。

(Filho de um pianista amador de jazz, Kyota Nakagawa cresceu num ambiente musical. Apaixonado por ritmos brasileiros, principalmente pelo choro e pela música de Villa-lobos, o saxofonista hoje toca com grandes nomes da música japonesa.ナタウ現地で紹介された紹介文を編集部で翻訳しました)

中川恭太 フェースブック

このエッセイは2013年5月から7月にかけて掲載されたものです。

1.ノルデスチのショーロ  – ナタウ、リオ・グランデ・ド・ノルテを訪問して

頭のてっぺんからまっすぐに降り注ぐ太陽。群青色の空、どこまでも高い雲、エメラルドグリーンの海、そして真っ白な砂丘。
パウ・ブラジルが生い茂るジャングルの中、無色透明の水を湛える無数のラゴアで子供達が毎日遊んでいる。
ちょっとのカシャーサと甘酸っぱいカジューの実でこの世の楽園に行ける街、ブラジルはナタウ、リオ・グランデ・ド・ノルテに、先月少しばかり訪問させていただきました。その時の話を。

ショーロは、19世紀に当時のブラジルの首都リオ・デ・ジャネイロで生まれた後、リオで着実に音楽性を豊かにしていくと同時に、その自由でかつ格調高い演奏スタイルはブラジル全土に広まっていきました。そして大作曲家ピシンギーニャが活躍する頃、20世紀前半のリオにはブラジル全土から腕利き演奏家が集まっていたのです。
ギターのジョアン・ペルナンブーコ、バンドリンのルペルシ・ミランダはペルナンブーコの出身、クラリネット&サックスのルイス・アメリカーノはセルジッペの出身。
ブラジル人の魂の故郷と言われている、ブラジル北東部、ノルデスチ出身の演奏家が多いのは、偶然ではないかも知れません。

そしてそんな、リオという都に上京して活躍した演奏家は、地元では英雄として讃えられたのでしょう。
ナタウで私はそれを垣間見ることができました。リオ・グランデ・ド・ノルテの英雄と言えば、クラリネット&サックスのカシンビーニョです。
夜な夜なショーロが演奏されるバーの壁面には、ピシンギーニャと並んで(より大きく)カシンビーニョの似顔絵が掲げられ、彼の功績が誇らしげに記されています。
ステージでは、セヴェリーノ・アラウージョ(彼もペルナンブーコ出身)やカシンビーニョの曲が待ってましたとばかりに演奏され、カシンビーニョの名曲ソノローゾの最初のワンフレーズで拍手喝采、という、日本で言う演歌ステージの世界が、ほぼ同じ形でそこにありました。

私の当地の受け入れ先であった若手ショーログループ、ディオゴ・グアナバラ&マカシェイラ・ジャズが、昨年の来日で共演する曲目を決めるのにカシンビーニョの話ばかりしていたのですが、当地の演奏家にとってカシンビーニョと言えばおそらく世界の人なんでしょう。というと大げさかも知れませんが、例えば現地でのホーダ・ヂ・ショーロ(不特定多数のショーロ演奏家が集まって行うショーロのセッション)の時も、ピシンギーニャのスタンダードは知らなくても、カシンビーニョの曲なら知っているのです。
また、自分達の街の英雄であるカシンビーニョの曲を演奏する外国人、という存在を目の当たりにすることで、改めて彼が世界の人であることを実感する、という気持ちいい勘違いが、その場をよりハッピーにするのです。

この郷土愛には、日本を心から愛する私からしても正直、嫉妬のような感情を抱かずにはいられません。
そしてそれが、サウダーヂという現象そのものである、ということが、この旅で理解できた気がします。
帰国の際、私のステイ先のファミリーの母親が「あなたは日本に帰って子供達と会えて嬉しいのだろうけど、あなたの心の中にはしっかりとサウダーヂ・ド・ブラジルが根付いたのよ」と言われたのが忘れられません。

リオで活躍した演奏家はもちろんですが、地元にとどまった演奏家を忘れてはいけません。
日本にいながらにしてこの地元の名士達の存在を知ることはなかなか難しいのでしょうが、彼等の実力はリオで活躍した演奏家に劣るものではありません。
劣らないどころか、彼等は今でも、地元の若手演奏家の憧れであり、目標となる存在です。
そんな名士の一人に会うことができました。
ジョアン・フヴァンクリンという弦楽器奏者で、結構な老齢に見えますが、彼自身にプレゼントしていただいたサイン入りCDを帰国以来聞かなかった日はありません。
ジョアンは私のことを「コブラ」と盛んに言っていました。ソヴァコ・ヂ・コブラというリオのショラオンが集う場所もあったくらいですから、いい意味だと理解したいところです。サウダーヂ・ド・ブラジルと共に根付いたのが、そんな地元の名士を敬う感情です。
もう一人、この世にいないので会うことはできませんでしたが、チコ・ダ・コスタは生涯2000曲を作った彼の地の大作曲家です。
私は幸運にもナタウのステージでマカシェイラ・ジャズと共に彼の曲を演奏することができました。

ブラジルの辞書には別れという言葉は載っていないようでした。
私が帰国する前日、あるメンバーは、私が「明日、日本に帰るんだ。さみしいよ。」とつぶやいたら、「さみしくないよ。これは最後じゃない、最初だ。僕たちはこれからずっと一緒なんだ。」と普通に返すのです。
今ディオゴ・グアナバラ&マカシェイラ・ジャズは、ジョアン・フヴァンクリン、チコ・ダ・コスタ作品集のレコーディングを進めています。
私も少しだけ参加しました。ショーロという音楽を通して、ナタウ、リオ・グランデ・ド・ノルテを世界に向けて知らしめようという彼等のプロジェクトに、私は心から賛同の意を表明せずにはいられません。

2.ナタウのショーロ – ナタウ、リオ・グランデ・ド・ノルチを訪問して その2

リオで活躍した音楽家はもちろんですが、ここでは地元の活動が中心となった音楽家を語る必要があります。
残念ながら、現地に行かずして彼等の存在を知ることはなかなか難しいのでしょうが、実力は決して、リオで活躍した音楽家にひけをとるのではありません。彼等は音楽を志す若者達の最初にして究極の目標となる、いわば父親のような身近かつ絶対的な存在です。ブラジルにはどの街にもそのような名士がいて、
皆から慕われつつ真摯に地元の伝統を守っています。若者達はその姿勢に多くを学び、ある者は上京、またある者は伝統の後に続くのです。世界中のどこにいても、ナタウ出身の音楽家は、自分達の誇り高き父親の存在を忘れることはありません。

そんな中の一人がジョアン・フヴァンクリンというマルチ弦楽器奏者です。
彼の音楽はまさに、ルペルシ・ミランダ直系のノルデスチのショーロで、フレーヴォ、バイアォンのリズムや、吟遊詩人のバラッドを取り入れた、この地域の伝統に深く根ざしたものです。
ジョアンは私のことを、私の演奏スタイルをさして「コブラ」と呼び、レコーディング中の私達をコントロール・ルームから見守り、初のブラジルでのステージ上で緊張する私に微笑みかけ励ましてくれました。サウダーヂ・ド・ブラジルと共に根付いたのが、そんな地元の名士への敬愛の情です。
私はナタウ出身ではありませんが、ノルデスチのショーロ、そしてナタウを愛する一人の音楽家として、彼が作った珠玉の楽曲の数々を、演奏を通して出会う全ての人に教えようと思っています。

もう一人、惜しくも2009年にこの世を去ったチコ・ダ・コスタは、生涯を通して2000曲を作り、ブルー・ノート・ニュー・ヨークでフィリップ・グラスとも共演した、ナタウが生んだ大作曲家、ギタリスト兼歌手です。
ノルデスチというのはとても興味深いところで、外国人がステレオタイプに描くサンバの国とはまた違うブラジルの一面を知ることができます。
混血の割合は50%を超え、インディオやアフリカをはじめ世界各地の歴史的な民俗文化が交錯するさまには、誰しも必ずどこかに懐かしさを覚えるはずです。人間として極めてプリミティブな感動を与えられると同時に、時にはスピリチュアルですらあります。チコの作る曲がどれも土着的かつ神秘的なのは、
ノルデスチ出身だからこそなせる業なのでしょう。私は幸運にも、彼の出身地で彼の曲をステージで演奏し、レコーディングまでしたのです。

ブラジルの辞書には、別れという言葉は載っていません。マカシェイラ・ジャズのベーシスト、エンヒッキと移動中、ふと「明日、日本に帰るんだ。さみしいよ。」とつぶやいたら、「さみしくないよ。これは最後じゃない、最初だ。次は日本で一緒に演奏するんだ。」と彼は言いました。
ドラマーのハファエルは、世にも美しいジェニパブー公園のビーチで、「あれは日本語で何て言うんだ?」「あれは?」とひっきりなしに私に尋ねました。
滞在中彼とはずっと一緒にいましたが、自分のポルトガル語が不自由なのを感じることはほとんどなかったのです。
バンドリンのディオゴとは別のグループのレコーディングもしました。ショーロではなくサンバのグループですが、知性溢れる歌詞と実に上品なサウンドで、日本でもうけること間違いなしと思われます。

サウダーヂとは、失われたものに対して想うものではないのです。常に人の心の中にあり続け、想うもの。次は日本で会おうという約束、そしてその時には彼等は日本語で私達に問いかけてくれるのでしょうか、そして、この旅の思い出がたくさん詰まった2つのレコーディング。
全て、いつでも再会することができます。
日本とブラジルには物理的にはかなりの距離がありますが、人の心にその距離はありません。
私はこの時、自分は日本人であり、かつ地球人であることを実感しました。

ただ今ディオゴ・グアナバラ&マカシェイラ・ジャズは、ジョアン・フヴァンクリン、チコ・ダ・コスタの作品をシリーズしたレコーディングを進めています。
音楽を通して、ナタウ、リオ・グランデ・ド・ノルチを世界に向けて知らしめようというこの壮大なプロジェクトに、私は心から賛同の意を表明します。そしてこのエッセイを読んでくれた多くの人が、
ナタウ、リオ・グランデ・ド・ノルチ、ノルデスチの魅力を少しでも感じ取り、一人一人の心にサウダーヂが生まれることを願って止みません。

3.ニュー・オーリンズとショーロ

時は19世紀後半。南北アメリカ大陸では、奴隷解放により市民権を得つつあった黒人人種が、ヨーロッパの音楽と故郷アフリカのリズムを融合して沢山の新しい音楽を生み出していました。
ショーロがその一つであることはここで語るまでもありませんが、もう一つの、その後の人類にとてつもなく大きな影響を与えている潮流があります。
ジャズです。ジャズはショーロとほぼ時を同じくして、ほぼ同じ経緯で生まれました。現代のジャズという言葉から連想することはできませんが、かつてのジャズはショーロと同じく、ラグタイム、フォックス=トロット、ワルツなどの多様なリズムを持っていて、コール・アンド・レスポンスと呼ばれる対旋律が常に存在し、楽曲の様式も、ブルースからロンド形式(主題が異なる旋律を挟みながら何度も繰り返される楽曲の形式のこと)まで豊富な選択肢があったのです。

そう考えるとショーロとジャズがそれぞれの生い立ちについて異なる点は、生まれた国を除けばほとんどないと言っても過言ではないかも知れません。
ただし発展の過程においては大幅な違いがあります。ショーロが演奏家による演奏家のための大衆芸術として育まれたのに対し、ジャズは、ジャス・ハウス=女郎屋という語源が示す通り、当初はニュー・オーリンズの売春宿のバックグラウンド・ミュージックとして発展しました。
現代ではただ一戸の古びた家屋にその面影を残すのみの旧歓楽街、ストーリーヴィル。
1917年風営法の改正によりこの一角が閉鎖された暁には、多くのニュー・オーリンズの音楽家が仕事の場を求めてアメリカ合衆国各地(特筆すべきはアルフォンス・カポネの牛耳るシカゴですが)に散らばっていったほど、ジャズと性風俗の関連は密接でした。ジャズの初録音、全米普及はちょうどこの時期と重なっています。

そんなこともあって、大量生産と大量消費が豊かさの象徴とされた時代の聴衆がジャズに対して音楽的に高度な要素を求めることはほとんどなかったのでしょう。
楽曲の様式は単純化されミュージカルのテーマなど流行曲(現代においてジャズのスタンダードと呼ばれている曲のほとんどがこれです)ばかり演奏されるようになり、演奏を困難かつ複雑にする対旋律は排除され、更には音楽家の売り出しがレコードと結びつきつつあった中、業界のマーケティングの一環としてステレオタイプな黒人のリズム=ストンプのみがジャズとして録音されるようになり、不幸なことに多様なリズムまで失われてしまいました。こうして後の世の人々のジャズに対するイメージが出来上がりました。この音楽的な下敷きはジャズのトラウマと言ってしかるべきもので、同時にショーロには存在しない、クラシックとジャズ(もしくはその影響を受けたあらゆる音楽)を隔てる大きな壁となっています。

第二次世界大戦が始まり、享楽的刹那的なスウィングの時代が幕を閉じようとする頃、かつてのニュー・オーリンズを取り戻そうとするリバイバル・ムーブメントが起こります。
例えばダニー・バーカー”Danny Barker “(ギター)、ポール・バーバリン”Paul Barbalin”(ドラムス)のように、一時期はニュー・ヨークでトップ・ミュージシャンとして活躍しながらも時代に流されて仕事を失い故郷に戻った音楽家がいます。ニュー・オーリンズでの彼等の再出発と活躍は目覚ましいものがありました。
また現地に残っていたバンク・ジョンソン”Bunk Johnson”(トランペット)やジョージ・ルイス”George Lewis”(クラリネット)は、いわゆる貧困層にあって人々から忘れ去られていましたが、このムーブメントの中で発掘され、音楽家として華々しい再デビューを迎えることとなりました。
この頃の録音や資料から、私たちは黎明期のジャズの姿を知ることができます。
ニュー・オーリンズには伝統的に、あらゆるものをごちゃ混ぜにして一つにする、という哲学があります。
当地の名物料理、ガンボやジャンバラヤなどはその象徴かも知れません。

リバイバル・ ムーブメントの中で演奏される楽曲は、当時のラグタイム等だけでなく、メキシコのクラシック作曲家の楽曲から、キューバのポピュラー音楽、賛美歌まで多種多様でした。その多様性は今も継承され、海を超えてジプシー音楽やパリのミュゼットまでもが取り入れられています。
ショーロも例外ではなく、今日では「カリオカ」や「ガロート」などエルネスト・ナザレーの楽曲がニュー・オーリンズ・ミュージックとして演奏されているのです。

実は、ニュー・オーリンズとショーロの架け橋となった人物が19世紀に既に存在していました。
1829年にニュー・オーリンズに生まれ、1869年にリオ・デ・ジャネイロに没したピアニスト、ルイス・モロー・ゴットシャルク”Louis Moreau Gottschalk”がその人です。
新大陸初のホープとして、若くして単身ヨーロッパに渡り、ショパンやベルリオーズにさえ賞賛された腕前を持ちながら、クレオール、つまり植民地生まれであることだけを理由に受け入れられませんでした。

現代人にとって彼が全くの無名であることは、まさに歴史がヨーロッパ人の画一的な価値観によって記述されてきたことの証でしょう。

ゴットシャルクはその後、コンサート・ピアニストとして中南米を周遊する中で当時の各地の音楽をそのままの形で数多くのピアノ曲に残しています。
それが可能だったのは、彼が生涯ニュー・オーリンズ人として、その伝統的なニュー・オーリンズの哲学に立脚していたからでしょう。

ブラジル人ではないためか、ショーロの文脈でゴットシャルクが語られることはありません。しかし、録音文化のない19世紀、彼のような存在が中南米の多元的なエッセンスを各地に伝播していったことは明らかで、その結果ショーロも初期の段階で、様々な文化圏の人々に広く受け入れられる下地が出来たのです。

もしかすると若かりしジョアキン・カラードやシキーニャ・ゴンサーガも、リオ・デ・ジャネイロで彼が自作のハバネラを披露するのを聞いて感動し、初期のショーロの様式であるハバネラの楽曲を作った、のかも知れません。ゴットシャルクが亡くなった当時6才の少年だった、唯一無二の偉大なショーロ作曲家「ブラジルの魂」エルネスト・ナザレー”Ernesto Nazareth”の名曲にすら、その影響を見ることができます。

ミュージシャンによるエッセイ