7弦ギター
マウリシオ・カリーリョ(Mauricio Carrilho)
~ホウアネッチ法によるペトロブラス協賛「ブラジルの音楽家大全」プロジェクトのために寄稿されたエッセイ集より~
Ensaio elaborado especialmente o projeto “Musicos do Brasil: Uma Enciclopedia”, patrocinado pela Petrobras atraves da Lei Rouanet
はじめに
このエッセイは表題の通り7弦ギターの100年の概観を記したものです。
20世紀初頭のチュチ(Tute)の時代からジノ・7コルダス(Dino 7 Cordas)を経て、現代まで7弦ギターがどのように受け継がれ、発展してきたのかという歴史が簡略化して書かれています。
一方夭折した天才7弦ギター奏者ラファエル・ラベーロ(Raphael Rabello)の逸話や少年時代のエピソードからは親友であり同志でもあったマウリシオが捧げるラファエルへのオマージュとも感じます。
当エッセイの翻訳を快諾してくれてたマウリシオ・カリーリョ氏と、当該プロジェクト担当者マリア・ルイザ・クフォウリ氏(Maria Luiza Kfouri)に感謝します。
リオ在住のフルーティスト熊本尚美さんとギタリスト高田泰久さんには翻訳に際し専門家としてのご助言と協力を得ました。この場を借りまして謝意を申し上げます。但し、誤訳、未熟部分、その他一切、翻訳に関する責は貝塚に帰します。目次の表題については最初の「起源」は原文に題名が無かったので訳者により付し他の表題は原題を意訳しています。
貝塚正美
起源
7弦ギターはショーロやサンバでは昔から使われてきた楽器ですがが、近年では、これが他のジャンルでの伴奏やソロ、他の楽器とのアンサンブルにも使われるようになり、またクラシックコンサートにも見受けられるようになってきました。
7弦ギターがブラジルで使われ始めた起源はよく分かっていません。ある人はロシアいたジプシーがブラジルに持ってきたと言っていますが証拠があるわけではありません。分かっているのはチュチ(Tute、本名Arthur de Souza Nascimento、リオ出身 1886-1957)と、同時代のシナ(Chia、本名 Otavio Vianna、ピシンギーンヤの一番上兄)がこの楽器をポピュラー音楽界に持ち込んだことです。
それ以降はショーロやサンバの舞台から消えることはありませんでした。
しかしそれからもプレイヤーの間では主要な楽器ではなく、1952年にオロンジーノ・ダ・シルヴァ(Horondino da Silva)つまりジノ・7コルダスが使い出してからようやく注目を集め始めることになりました。
1975年頃メディアの世界でショーロが再び取り上げられ始められると、それにひきつられ若い7弦ギター演奏家が多く出てきました。その中の一人が、ラファエル・ラベーロです。彼は後年ブラジルのギター演奏家の内、最も才能ある者の一人となりました。
ラファエルは7弦ギターを初めてソロ楽器として独立させラダメス・ニャタリとガロート(Garoto)の古典的なショーロ、サンバの作品集を録音しました。
この彼の挑戦はこの楽器の可能性を更に広げ、7弦ギターを魅力のある楽器として若い音楽家の間に普及させることになりそれがクラシック音楽界にも波及しました。
7弦ギターには二つの必修課目があります。一つ目がジノが開発した技術とその音質です。二つ目は最近のことになりますが、ナイロン弦を使ったクラシック・ギターの奏法に近い技術と音質です。
必修課目 (1) スチール弦の7弦ギター
1952年にジノが古いリオの弦楽器店「バンドリン・デ・オウロ」(Ao Bandolim de Ouro)のギター責任者シルヴェストレ(Silvestre)に7弦ギターを注文したとき、彼には既に二人の良き先達から学んでいたことがありました。それは、チュチの演奏技術とピシンギーニャの音楽表現法でした。
ジノはショーロが一番輝いていた時代を知っています。ベネジット・ラセルダ(Benedito Lacerda)がフルートを吹き、ピシンギーニャが対位法によりサックスを鳴らし、チュチがまだ6弦ギターを演奏していた現場によく通っていました。
ピシンギーニャやチュチは、アナクレット・デ・メデイロス(Anacleto de Medeiros)やイリネウ・デ・アルメイダ(Irineu de Almeida)などのショーロ初期の演奏家の直接の相続人であり、ジノはそれを受け継ぎ7弦ギターの音楽表現に活かしました。
楽節、リズムの取り方の多様性等、ジノの60年以上の経歴がブラジル音楽界に残したものは7弦ギターを弾く次の世代すべてのアーティストの模範となりました。
音質に関しスチール弦の7弦ギター奏者にとって以下のことは知っておいたほうがよいでしょう。通常、演奏者はフラットピックかサムピックを使います。ショーロやサンバの場合にはサムピックは非常に多く使われ、フラットピックは事実上存在しません。
サムピックの材質は色々ありますが、演奏者に好まれているのはステンレス鋼製のものです。これらのサムピックは、通常薄い鋼板を自分の指の形に合わせて作られます。
だからギタープレイヤーはこれを非常に大切に扱い、形が変わるのを恐れて人に貸すのを嫌がります。
サムピックを使う右手のテクニックはクラシックとは随分異なります。親指を多く使います。実際左手の動きに合わせ、すべての楽節で親指を優先的に使います。
ジノ・7コルダスの初期の録音では第7弦のメタリックな音が良く聴こえてきます。
その後60年代の初頭確かに音質がよりまろやかになり一瞬のことですが乾いた音が聴こえます。これはジノが、チェロの第4弦をギターの第7弦に使っているからです。
ジノが開発した一つの特質は一番鋭い音である1弦と2弦(“ミ”と”シ”)にナイロン弦を使ったことです。
これは和音を柔らかくする働きがありました。
必修課目 (2) ナイロン弦の7弦ギター
1979年カメラッタ・カリオカ(Camerata Carioca)はラダメス(Radames Gnattali)プロデュースによるヴィヴァルディのコンチェルト録音の準備をしていましたが、事情でラファエル・ラベーロに代ってルイス・オタヴィオ(Luiz Otavio Braga)が7弦ギターのパートに加わりました。
この音合わせの最中に、ルイスはギターにナイロン弦を張ってみました。それはグループ内の3本のギターの音質に均質性を持たせようとした為です。
ルイスはその効果に満足し歴史上、最初にナイロン弦の7弦ギターを注文する栄誉を担いました。そのギターはジアンニ(Giannini)の 製作(訳者注:後出)でしたが均整の取れた胴の部分については元ギター演奏者だったセルジオ・アブレウ(Sergio Abreu)のギター職人としての最初の仕事でした。
ラファエルは、この結果に印象づけられました。そこにナイロンの7弦ギターの可能性を見たようで、直ぐにギター職人のマリオ・ジョルジ・パッソス(Mario Jorge Passos)に同じ機能のギターを注文しました。
この頃にはラファエルは既に、ソリスト、デュオのパートナー、有名歌手の伴奏、そしてコンサートの主催者等、ギター奏者としての地位を確立していましたが、このギターはこの後彼に期待以上の成果をもたらしてくれることになります。
ここに7弦ギターの新しい流れが確立されました。右手の技術はクラシックの6弦ギターの奏法に非常に近いものでした。指で直接弾くことによりナイロンの7弦ギターは一面では攻撃的な鋭い音を失いましたが、もう一面では音色の多様性を獲得しました。
このナイロンの7弦ギターを手に入れてからは古典的なサンバやショーロですらラファエルは殆どスチール弦を使わなくなりました。
ジョエル・ナシメント(Joel Nascimento)のCDショランド・デ・ヴェルダージ(Chorando de Verdade)の録音がいい例です。ジョエルが相当強く勧めてもラファエルはスチール弦を手にしようとはしませんでした。
調弦
伝統的に7弦ギターの第7弦は、”ド”に調律されてきました。
しかし私は色々な記事で書かれているように「それは多くのショーロが”C調”で構成されているからだ」とは思えません。
第一それは真実ではありません。ショーロ、ワルツ、サンバは、いつももっと様々な調性により演奏されてきました。
和音の構成が簡単になるという理由もまたあまり信じていません。
唯一言えるかなと思うことは「7弦ギター奏者の何世代間に続けられてきたこの習慣は音質、張り、調弦をうまく行うことができる7弦用の”シ”の弦が無かったからではないか」ということです。
7弦を”シ”に調弦すると、論理的に、ギターの低音部が4度ずつになります。今日ではナイロンやスチール弦は様々な太さ、伸張性のものが売られており、それは第7弦を”ド”や”シ”、また”ラ”まで調弦できます。
シナ、チュチまたジノの初期彼たちが演奏用にどんな弦を持っていたのか想像すればこの問題の解答になるではと思います。これら伝統を考えた上、第7弦を”ド”に調弦する場合は、論理的には第6弦を”ファ”に調弦すべきではないでしょうか。
機能
7弦ギターが現れる前にはコンジュント・レジョナルでのハーモニーやリズム、対旋律は複数の6弦ギターで補いあっていました。つまり7弦ギターが一般的になる前に既に6弦ギターによりギターの表現技法は開発されていたということです。ベネジット・ラセルダのレジョナルの録音を聴いていると6弦のジノとメイラがリズムとハーモニーを分かち合い対旋律を弾いていることに気づきます。
例え作曲家が或るフレーズをこうやれと強制していたとしてもショーロやサンバのギタープレイヤーは即興で弾いてしまいます。特徴的なフレーズに合わせ即興で演奏するギタリストにとって、ハーモニーやリズム、ジャンルごとの性格を知っておくことは欠くことのできない必要条件です。
時が経つにつれ7弦ギターの普及ととジノの才能によって7弦ギターは昔とは異なった姿を持つに至りました。この楽器を演奏する者の数が増え対旋律の演奏はほぼこの楽器に独占されるようになりました。この為コンジュント・レジョナル内で一種の花形の位置を得ましたが、一方6弦ギターとの関係は微妙に複雑です。7弦ギターがヒエラルキーの上位にいるということが、いつも正しいというわけではありません。しかしこの花形であることによりこの楽器が更に普及し若い人たちが段々と手にするようになって来たことも事実です。それでも、7弦ギターを弾くジノやラファエルは、偉大な対旋律演奏者になる前に既にギターの基礎的な機能を完璧に知っていたことを音楽史として忘れるべきではないでしょう。
何故なら、今この楽器を演奏するものの中の相当数が、基礎が出来ていないからです。
このことがが嘆かわしい結果をもたらしています。ホーダ・デ・ショーロに4人5人の7弦ギター奏者いるのにみんな対旋律だけを弾いて誰もハーモニーを弾こうとしないことがよくあります。
「俺が」「俺が」と競い合い一つのバンド内でフレーズとフレーズをぶつけ合っているというのは、ショーロやサンバの先駆者たちが残してくれてていった美しい伝統、つまり楽曲の中での個々の楽器の役割の「バランス」と「全体性」を考えて演奏するという伝統を押しつぶしていると言えるでしょう。
ラファエル・ハベーロがソリストとして演奏した最初の録音を聴いているとサンバやショーロのコンジュントの重要な7弦ギター演奏者たちは自分のソロ演奏と他のソリストの為の伴奏とバランスをちゃんと考えています。この歴史的なCDではラファエルですら伴奏をとりジノがソロを演奏しています。
今日ブラジル人、外国人に限らず、7弦ギターの多く素晴らしいソロ演奏家がおり、様々な種類のCD録音があります。
室内樂、特にギターのコンジュントでは、7弦ギターだけでなく、8弦ギターまであります。
カルテット・マオガーニ(Quarteto Maogani)が、この楽器についてよく知っており、情感豊かに演奏している最良の例です。
私は、2003年に「7弦ギターとオーケストラの為の組曲」を作り、パウロ・アラゴン(Paulo Argoao)の編曲により、ギタリスタのヤマンドゥ・コスタ(Yamando Costa)に捧げられました。
この曲はブラジル国内では有数のオーケストラで演奏され、その他、カナダ、フランス、ベルギーにも初めて7弦ギター奏者を伴って演奏されています。
ギターの製造
どんな楽器の演奏技術の発展も、楽器の製造の進化との深い相関関係があります。直近の30年をとっても、ブラジルでの6弦7弦ギターの製造に正に本当の進化があったと確信しています。
1950年代ジノが最初の7弦ギターを注文する頃までは、撥弦楽器は伝統的な楽器店で造られていました。
リオデジャネイロではポルトガル移民が興した「アオ・バンドリン・デ・オウロ(Ao Bandolim de Ouro)」、「カヴァキーニョ・デ・オウロ(O Cavaquinho de Ouro)」が傑出しており、サンパウロではイタリア系移民の「ジアニーニ(Giannini)」、「デル・ベッキオ(Del Vecchio)」が有名でした。
60年代になると、楽器購入者の像が大きく変わりました。ギターとかカヴァキーニョが占めていた位置に電気ギターが置き代わったのです。その結果伝統的なアコースティック楽器の製造技術が著しく落ちてしまいました。
しかしながら、1970年代中頃サンバとショーロの世界に大きな朗報がもたらされました。日本人のギター職人、シゲミツ・スギヤマ(杉山重光)がブラジルにやってきたのです。
サンパウロでの彼の作品とリオデジャネイロのセルジオ・アブレウ(Sergio Abreu)の作品がブラジルの手造りギターの新しい水準となり、彼らに続く若い作家たちの6弦7弦ギターの製造技術は世界でも最高の質をもつに至りました。
7弦ギター演奏者の歴史とパーソナリティ
(1)ヴァルテールの記録
ヴァルテール・シルヴァ(Valter Silva)、通称ヴァルテール・7コルダス(Valter 7 Cordas)、私の知っている内でも最も才能のある伴奏者で即興の対旋律の演奏者です。彼のギターの音を最大限に出す能力にはいつも憧れを持っていました。
70年代、リオ在住ショーロ・ミュージシャンのアジトであったソバッコ・デ・コブラ(Sovaco de Cobra)でこのホーダの精勤者は思わぬ記録を作っています。
ある日曜日の夕方ホーダが終わりに近づき、それぞれ帰り支度を始めているとヴァルテールが「今日最後の1曲を弾こう」と言い出して演奏が再開されました。
その頃ラファエルはまだ14才の少年で大好きなヴァルテールをいつもすぐ横で見ていました。
するとラファエルの目の前でヴァルテルの”ソ”弦が切れてしまいました。
ラファエルは恰もそういうことが起こると知っていたかの如く、立ちどころにストックの弦を彼に渡しました。
再び同じことが起きるのに時間は掛かりませんでした。半フレーズも弾かないうちにまた”ソ”の弦が切れてしまいました。
ラファエルは映画「アマデウス」のモーツアルトの様にキャッキャと笑ってもう一本の予備弦を渡しました。
そしてまた一本また一本と弦が切れ続け、その間ヴァルテールは含み笑い隠した顰めっ面で演奏し続け、
その横にモーツアルトのような笑い声立て興奮して赤くなっているラファエルがいました。
結局6本の”ソ”の弦と一本の”レ”の弦が切れラファエルが自分の鞄の底を掻き回しながら「もう無い!」と叫ぶとこの日のホーダの最後の一曲は、中途で終らざるを得ませんでした。
(2)サドル(ヴァルテール 2)
何週間か後ソバッコのホーダはそのままベッチーニョ(Betinho)の家に流れていきました。
コンジュント・シャペウ・デ・パーリャ(Conjunto Chapeu de Palha)の仲間同士ヴァルテールがルビーニョ(Rubinho)の伴奏をしゼ・ダ・ヴェーリャ(Ze da Velha)がトランペットを演奏していました。
そしてヴァルテールが対旋律をわざとものすごい大きな音で引き出すと再び弦が切れ、サドルも壊れてしまいました。
これが私が目撃した壊し屋のもう一回の記録です。
(3)アイドル(ラファエル 1)
ラファエルがジノに抱いていた賛美と尊敬は計り知れず、他に比べようがありませんでした。ジノと同じ柄のシャツを着て、左手にジノと同じ緑色の石の指輪をはめ、更にこの重い指輪でも弾けるテクニックを自分で開発していました。
当然彼はジノから直接手ほどきを受けたいと願っていましたが、どういうわけかいつも断られていました。
その頃ジノは楽器店「バンドリン・デ・オウロ」でギター教室を開いていて多くの生徒(ほとんどが凡庸な生徒でした)に教えていました。ラファエルは教室を訪れ哀願するばかりに、「ジノ、僕はあなたの授業を受けたいんだ」と言いました。
ジノは辺りを見回し微苦笑を浮かべ「残念ながら私には時間がない」と応えました。
私はその一部始終を見ていました。
ラファエルは結局ジノのすべての録音の演奏を覚え込むことで授業の代わりにしました。
彼にはカルトーラ(Cartola)からアルタミロ・カリーリョ(Altamiro Carrilho)、ジャコー(Jacob)、その他も含めてすべてのアルバムのジノのギター演奏を最初から最後のフレーズまで完璧にコピーできる能力がありました。
(4)おろし金 (ラファエル 2)
若いミュージシャンはいつの時代でも演奏の場に飢えています。オス・カリオキーニャス(Os Cariocuinhas)で活動していた頃ラファエルとルシアーナ(Luciana)と私は夜に行わるすべてのホーダ・デ・ショーロに出かけました。
何回もソバッコ・デ・コブラで夜を明かし、日曜日の朝9時まで弾いていました。
ナイロン弦を使っていても私の指は緑青の様になってしまいましたがハファエルはスチール弦でした。
その所為で次々に指にでかいタコをつくり、ホーダを続けるには「恒例の儀式」をせねばなりませんでした。まず家に帰り塩水を温め、左手の指を沈め、その後かかと用の金属のヤスリでタコを削り取ります。(この大手術を最初に見たときにはびっくりしました。)この手術が終わると塩水入り瓶の表面には5ミリ程のタコの皮が浮いていました。
奇跡のように普通の大きさになったタコの持ち主は、ギターケースを肩にかけ、腹を突き出し、命令口調で「大至急、ソバッコ・デ・コブラへ向かうゾッ」と声を上げます。
(5)弦に注意(ヴェーリャ・グアルダたち)
毎週ソバッコ・デ・コブラに通う間に我々は古いショーロ・ミュージシャンと知り合いうようになりました。その内何人かはギターやカヴァキーニョの弦についての興味深い習慣を持っていました。我々を部屋の隅っこに呼んで、如何にも重大な秘密を明かす様に、奇妙な助言を与えてくれるのです。
「私は家に帰ったらギターから弦をはずしストレッチ器具に張って休ませています。」
二日後、彼等はまたやってきて言うのです。
「沸騰した鍋につけておく方がもっとよさそうだ。5分も経つと新品になってしまう。」
ダマジオ(Damazio)もいました。ジャコー・ド・バンドリン、アルタミロ・カリーリョ、デオ・リアンなどと共演したこの有名なギター演奏者が、私がどんなタイミングで弦を取り替えるか聞くと「何てことだ! まだたったの6ケ月しか使っていないのに」と叫びました。
このように古いショロォンたちは弦をなるべく取り替えぬ為にあれやこれや手品や魔術を工夫していました。サドルも壊れれば何とか修理していていました。でもネックが壊れたときはさすがに何もできませんでした。
そんな時は「ああ、破産だ」と悲痛な声が聴こえてきたものです。
有名なCD
時代ごとの7弦ギター奏者の違いとか、技法の発展してきた歴史に興味ある人向けに幾つかの例を挙げます。パイオニアはチュチとシナであり、これからジノとラファエルという二人の巨匠がおり、現代の有望なソリストはヤマンドウ・コスタ(Yamando Costa リオグランデドスル出身)、ロジェリオ・カエターノ(Rogerio Caetano ゴイアス出身)、ドウグ・デ・ヴィリエス(Doug de Vries オーストラリア出身)になります。
Memorias Musicais (Casa Edison) (Tute, China) -Biscoito Fino
Telecoteco opus 1 (Dilermando Pinheiro e Ciro Monteiro) (Regional do Canhoto) – Philips
Cartola (Regional do Canhoto) os dois CDs da Gravadora Marcus Pereira
Joao Nogueira (Espelho)(Dino) – Odeon
Altamiro Carrilho (Choros Imortais 1 e 2 )(Regional do Canhoto) – Copacabana
Jacob do Bandolim (Vibracoes)(Dino) – RCA Victor
Os Carioquinhas (Os Carioquinhas no Choro) (Rafael Rabello) ? Som Livre
Tributo a Jacob do Bandolim (Joel Nascimento, Radames e Camerata Carioca) (Rafael Rabello) – Warner
Rafael 7 cordas (Rafael Rabello) ? Philips
Todos os tons (Rafael Rabello) ? BMG
Rafael Rabello interpreta Radames Gnattali – Vison
Dino e Rafael – Caju/Kuarup
Rafael Rabello (Lamento do Morro) ? Acari Records
Yamandu Costa – Eldorado
Rogerio Caetano – Pintando o Sete – Independente
Doug de Vries (Jacaranda) – Acari
Violao de 7 Cordas