エロティデス・デ・カンポス

Erothides de Campos,
エロティデス・デ・カンポス
(1896-1945)

アヴェ・マリア(Ave Maria)によって知られるエロチデス・カンポスは人生の大半をサンパウロ州の郊外の町でで過ごしました。

サンパウロ市から50キロメートル程北西のカブレウヴァに貧しい家庭で生まれましたが、幼児の頃より彼の歌は人を魅了していました。
ある時アレジオ会の神父がエロティデスの天賦の才能の噂を聞き彼を9歳でサンパウロ市のボン・レチロ地区のリセウ・デ・コラソン・デ・ジェススに就学させ、彼のフルートは皆の驚くところとなりました。

1907年11歳のとき日露戦争の旅順港(203高地)の戦に感動し、旅順港のブラジル名のマーチ “Porto Arthurを作曲しちょっと名が売れました。
しかし12歳で腸チフスに罹病しサンパウロを去りなりピラシカーバへ移りスッジ・メヌッチ学校で勉強を続けました。ここで市内では有名なオーケストラ、イリス&ポリテアマ映画館オーケストラに参加しています。

1918年22歳で卒業しサンカルロス市のモンジョリーニョ駅学校に職を得、その後ピラシカーバのタンキーニョ学校に転職と共に愛するピラシカーバに戻ることが出来ました。
時々はピラスヌンガ市での市の仕事で呼ばれることもありましたが、32年からはその市までピラスカーバに留まり、ノルマル学校の化学の先生として過ごしました。

25歳でマリア・ベベヂッタ・ジェルマーノと結婚しこの二人は思いやる夫婦として知られ、慈善団体(Culto a Saudade)を設立しています。
1917年にワルツ「マリイーニャ(Mariinha)」を作曲しこれが最初に出版された曲になりました。この成功でサンカルロス市でサンカルロス・シネマ・オーケストラ(Cine Sao Carlos)を任されました。
23年ピラスンガ市に移ってからは市内のショローンのグループと活動し24年に名曲アヴェ・マリアを作っています。

この曲はリオデジャネイロのオデオン音楽社で26年に歌手ヴィセンチ・セレスチーノ( Vicente Celestino)により録音されていますががヒットはしませんでした。後年更に何回もレコード化されており、有名なものに39年にアウグスト・カリェイロス(Augusto Calheiros)、41年にアルヴァレンガ・ランシーニョ(Alvarenga e Ranchinho)、そして有名なフランシスコ・アルヴェス(Francisco Alves (1947)の録音です。今ではフランス、イタリア、オーストリー等でも古典曲として愛されています。

このエロティデスのアベマリアの最終的なヒットは何人ものアベマリアを作り上げました。
例えば、例えば、「丘の上のアヴェ・マリア」(Ave-Maria dos Namorados)、「恋人達のためのアヴェ・マリア」(Ave-Maria dos Namorados)、「セルタネージャのアヴェ・マリア」(Ave-Maria dos Namorados)等です。

ピラシカーバに移ってもフルート、クラリネット・ギター、ピアノを弾きながら最終的には230曲以上のワルツ、ショーロ、マシシ(Maxixi)、マーチ、タンゴ、サンバを残しました。

平穏な人生だったようで大きなエピソードは見つけられませんでしたがどういう訳か偽名を用いるのが好きで50以上の名前を数えられます。
知られたところではジル・ネヴェス(Gil Neves)、パン(Pan)、パン・エロポス(Pan Eropos)、エロポス(Eropos)そしてジョナス・ネヴェース(Jonas Neves)です。最後のジョナス・ネベスでは時々アヴェ・マリアのクレジットでお目見えします。

参考:MPB-CIFRANTIGA,Dicionarioda Musica Popular Brasileira
Memorial Piracicabano

ショローンとその時代