連載 エッセイ ヴィラ=ロボス





<文 宇野智子>




(21) ヴィラ=ロボスと私の「耳」の話


音叉



音楽家にとって、聴力が優れていることは才能の一つだと思います。ベートーヴェンのように人生の中途で聴力を失ってもなお、素晴らしい作品を生み出す作曲家もいますが、それは頭に正確な音の記憶が残っていてこそ成せる技。

 
ヴィラ=ロボスは「常々、父親からあらゆる音を聴けるように試されていた」と語っていたそうです。
街を歩いている時、鳥の鳴き声や雑踏の音をドレミに置き換えて歌ってみろと言われ、間違えるとひどく叱られた、というエピソードもあります。

そんな「星一徹」的スパルタ教育を課した父親のラウルは、実はかなり興味深い人物。
学習意欲旺盛で一時は医師を志したものの、労働者階級出身の彼としては断念せざるを得ず、エイトールが生まれる前後には、リオデジャネイロの国立図書館で働いています。同時に、アマチュアのミュージシャン、作家、専門書の翻訳家という様々な顔を持っていたようです。
彼がもし37歳(エイトール12歳の時)という若さで早世しなければ、ヴィラ=ロボスの音楽は、父の影響を受けてまた違ったものになっていたかもしれません。

余談ですが、母親のノエミアは長命で、87歳で亡くなりました。息子の音楽家としての活躍を見届けることができたわけです。

ヴィラ=ロボスと私の「耳」の話

実のところ、音楽に携わる者にしては、私はあまり良い耳を持っている方ではないと思っています。特に、合奏(アンサンブル)の経験が小学校で所属していたブラスバンド止まり(しかもパーカッションというハーモニー要素が皆無なパート!)なので、自分以外の音の流れや響きを聴くという習慣がおそろしいほど身についていません。
コンサート会場で、それぞれの観客の耳がとらえている音を波形にして、頭上に投影するような装置がもしできたとしたら、私の頭の上はずいぶん寂しいことになるのではないでしょうか…。

音を聴き逃して損している…以前からそれを漠然と感じていました。
ショーロのライブに行ったり、フルーティスト熊本尚美さんのワークショップを受講しているうちに、その思いはより強くなり、昨年リオでワークショップに参加したことで、決定的なものとして自覚しました。

ショーロの合奏において、自分が奏でている音が、周囲の音と調和しているか、常に気にかける必要がありますよね。

ホーダ・ジ・ショーロは、たとえ楽器を巧みに演奏できなくても、耳が優れていれば楽しめる空間なのではないかと思います。
逆に、いくら技術を持っている演奏家でも、他の音を聴いて対応する力がなければ、音楽の楽しさや喜びを感じにくいのではないでしょうか。

ヴィラ=ロボスと私の「耳」の話

実際に、私はホーダの中に入って聴いているのと、ライブを観客として鑑賞するのでは感じ方がかなり違いました。

年齢を重ねるごとに聴力が落ちるというのは事実です。しかし一方で、音楽を聴く能力は、ある程度まで鍛えることが可能ではないかと思います。

私自身が心がけているのは、塊として聴いていた音をほぐして一つ一つ聴くようにするということです。それはCDの音源ではちょっと難しくて、現場で生の音に接している時の方が分かり易い気がします。

私はピアノを教える仕事をしていますので、生徒さんのピアノを聴くのもまた、良い訓練になっています。
フレーズや和音の響きを理解して弾いているか。打鍵が正確になされてきれいな音になっているか。小さなお子さんでも大人の方でも、そうしたことに留意して弾いているかどうかは、注意深く聴けば分かります(分かったとしても、それを指摘するかどうかはまた別の話ですが…)。
自分の演奏よりも客観的に聴ける分、彼らの演奏をもっと良くするためには何をどうすべきか、考えながら耳を傾けることができます。その過程で楽曲の奥深さや美しさを再確認することも少なくありません。

もっとたくさんの音を一度に感じることができるようになれば、ヴィラ=ロボスの音楽も、また違った顔を見せてくれるのかもしれません。

ヴィラ=ロボスの音楽は、彼の耳に飛び込んで来る溢れんばかりの音を、一曲に無理矢理詰め込んでいるようにも感じます。
それはさながら、子どもが誇らし気に自慢の宝箱を披露するかのように、一見がらくたのように見えたり、満艦飾で訳が分からなかったりします。けれど、その宝箱の中から共感できる何かを見い出し、不思議な響きに魅入られる者も確かにいるのだと思います。

見る人や、見る時、年齢が違えば、見え方も違ってくる。それこそが、音楽や芸術全般が人を惹き付けてやまない一番の魅力ではないでしょうか。


2014 02 18