作曲家列伝 

彼らの生んだショーロスタンダード







Joaquim Callado




Joaquim Callado
1848-1880
ジョアキン・カラード


ショーロの父 ジョアキン・カラード



「ショーロの父」と呼ばれるジョアキン・カラードの人生は32年と短いものでした。
「短かかろうが、どんな人生にも春夏秋冬がある」と吉田松陰は言っています。
ジョアキン・カラードの経歴を辿っても、その時々を彼がどう感じながら生きていたのか知ることはできませんが、彼の残した音楽、そしてショーロというスタイルは、今も確かに我々の手元に残って息づいています。

ジョアキン・カラードを語る上で、1830年生まれの二人の人物の名前を欠かすことはできません。
マチュー・アンドレ・ヘイシェ(Mathieu-Andre Reichert) と、エンヒッキ・メスキータ(Henrique Alves de Mesquita)です。

Henrique Alves de Mesquita

ヘイシェはベルギー人で、ブリュッセルの音楽院で学び、ヨーロッパでは有名なフルート奏者でした。
当時のブラジル王ペドロ二世に招かれて1859年ブラジル・リオデジャネイロに渡り、1880年に同地で亡くなっています。
フルートの新しいシステム、ベーム式(Boehm system)の紹介者としても知られています。
彼のリオでの演奏会活動や、ポルカ(La Coquetto ,A Faceira)の作曲が、カラードに直接、間接の影響を与えたことはほぼ間違いありません。
1873年に、カラードはヘイシェの為にコンサートを開催しています。

エンヒッキ・メスキータは言うまでもなく、ブラジル独自の音楽を作ろうと苦闘した最初のランナーの一人で、リオ音楽院から初めてパリへ渡った国費留学生でした。
カラードは8歳頃から、フランス留学前のメスキータにフルートの個人レッスンを受け、また後年、和声、作曲法、指揮を習っています。

カラードは、トランペット奏者で指揮者でもあった父親のもとに生まれました。家にはリオの町のミュージシャンたちの出入りも多く、後のピシンギーニャと同じような環境で育ちました。

65年、シキーニャ・ゴンザーガと出会い、69年に彼女に捧げた曲 "Querida Por Todos"を発表しています。
71年にリオ音楽院にフルートで入学、79年には同音楽院の三代目のフルート教授に就任し、同年、王室より薔薇勲章を受けました。
(この年、音楽院の教授は全て叙勲されましたが、どういうわけかエンヒッキ・メスキータだけは外されています。)

その傍ら、あるいはこちらが本来の姿であるのか、カラードはコンジュントを組んで、一般の家庭で開かれるダンス・パーティー、洗礼の祝い、結婚式、誕生祝いといった席に喜んで出向き、そこの主人に記念の曲を頼まれれば、即座にその場にあった紙に譜面を書き込んで演奏したと伝えられています。
即興曲のリズムはポルカを主として、ワルツ、タンゴ、ルンドゥ等々、様々でした。

Viriato Figueira da Silva

このバンド仲間とは、ビリアット・シルバ(Viriato Figueira da Silva)、 イスマエル・コヘイア(Ismael Correia)、レキーニョ(Lequinho)といった面々です。
因みに、教え子で且つ音楽院の同僚でもあったフルーティスタ兼サキソフォニスタのビリアット・シルバはジョアキンの死の3年後に同じ歳の32才で亡くなり、ジョアキンの隣に埋葬されています。(実際は後にカラードの墓所をビリアットの隣に動かしたのですが。)

初期のショーロの基本的な編成は、フルート、カバキーニョ、それに2本のギターで、これはカラードの作ったコンジュント "Choro Carioca"の編成に由来します。

ところでショーロというジャンルの音楽が、何故「"choro"ショーロ」と呼ばれるようになったのかについては、いくつかの説があります。
一般的には、"chorar"(泣く)から生まれた名称だと言われます。
これに対するのは英語の"chorus"、ラテン語の"coro"、即ちコーラス団(遡れば、ギリシャ悲劇で使われる小合唱団コロス)を語源とする説。
この他にも、農場の奴隷黒人のお祭り"xolo"からという説や、当時の有名だったインストルメンタル・バンド"Os Chorameleiros"が語源であるという説もあります。
(個人的には、ショーロを聞いてchorarしたくなる感じはあまりありません。予断は禁物ですが。)

いずれにせよ、1800年代後半にショーロが"choro"という言葉で呼ばれていたことは事実で、カラードのコンジュント"Choro Carioca"は1870年に結成されました。
とは言え、リオの都市音楽であったショーロがブラジル人全体のものになるのは、1920年代以降、ピシンギーニャの登場を待たなくてはなりません。

現代、カラードを巡っては、ショーロを確立したのだから「ショーロの父」"pai do choro"と呼ぶべきだ、或いはショーロ演奏家の中心的存在であったことから「ショーロ・ミュージシャンの父」"pai dos choroes"こそ相応しい呼称だ、などと評論家や歴史家、民俗学者の間では論争があるようです。

天性のフルートの資質と名声、良き先達と仲間に恵まれた人生は、とても幸福そうに思われます。

当時の音楽家として最高に名誉ある職に就き、大衆音楽家としても評価され、王立劇場でも演奏を披露したカラードでしたが、1880年3月20日、ヘイシェの死の5日後、流行性脳炎で呆気なく世を去りました。葬式は伝染病の罹患の恐れから、参列者も少なく寂しいものであったと記録されています。
彼の死から9年後、ブラジルは王制から共和制へと大きな時代の転換期を迎えます。

カラードの逸話から見えてくる人生には、丁度その100年前に時代を駆け抜けたモーツアルトを彷彿とさせるものがあるようです。


代表曲

Querida Por Todos
Cruzes, Minha Prima !
A Flor Amorosa
A Seutora

参考:samba-choro.com.br
musicosdobrasil.com.br
cliquemusic.uol.com.br
drzem.com.br
"Joaquim Callado, O PAI DO CHORO" (Andre Diniz)

2012 12 06

注:写真はインターネット上からダウンロードしました。