作曲家列伝 

彼らの生んだショーロスタンダード





Henrique Alves de Mesquita




Henrique Alves de Mesquita
エンヒッキ・アルヴェス・デ・メスキータ
1830 Rio de Janeiro-1906 Rio de Janeiro



エンヒッキ・メスキータは、ジョアキン・カラッドやシキーニャ・ゴンザガの一世代上になる19世紀前半に生まれた作曲家兼音楽教授で、ブラジリアン・タンゴ(Tango)を初めて世に送り出した功績があります。

ドン・ペドロ II

19世紀は、ブラジルにとって、ヨーロッパ(主にポルトガル)の政治支配からどのように独立するかという命題(言い換えれば、ブラジルという単なる地理的な名称が、ひとつの生命を持った固まりになる為)の解答を求める世紀でした。

1822年のペドロ一世によるポルトガルからの独立の後、31年のペドロ一世の退位、41年のペドロ二世の戴冠まで、各地で共和派の反乱が起きます。
このペドロ二世の即位は諸勢力の妥協の産物であり、またブラジルが王制から共和制へ向かう最終章でもありました。

ヨーロッパ自体も48年のフランス二月革命に始まる「諸国民の春」によりウイーン(ハプスブルグ)体制が終焉を迎えています。

1822

因みに、ペドロ一世の王妃(Maria Leopoldina de Áustria)はハプスブルグ家出身です。今でもブラジル国旗やセレソンのユニフォームの色と言えば「黄色」と「緑」ですが、「黄色」はハプスブルグ家、「緑」はポルトガル王家のブラガンサ家の色であり、1822年の独立の日、王宮前にこの二色の旗が沢山飾られたことが記録に残っています。

一方、この混乱は近代化への道でもあり、国内教育制度の確立も図られ、37年に中等教育のための学校(ペドロ二世高等学校 Coledio Don Pedro Segundo)、48年には帝立音楽院(Imperial Conservatorio de Musica)などが設立されています。

エンヒッキは、この帝立音楽院に設立年の1848年に入学し、対位法とオルガンを最優秀で修了しました。
これによりフランス留学の報奨を受けることができ、翌57年にはパリ音楽院(Conservatoire de musique et de déclamation)で和声、オペラを学びました。
このヨーロッパ留学は、彼に「ブラジル独自の音楽」を創る情熱をもたらしました。

Chiquinha

また、留学中、パリ音楽院の教授であったアドルフ・サックス(Adolph Sax)と知り合い、このサックス氏が考案した楽器「サキソフォーン」をブラジルに紹介したことでも知られています。

66年に帰国し、母校に和声とソルフェージュの教授として招かれました。
彼のここでの最大の教え子はジョアキン・カラッドとアナクレット・デ・メデイロスです。

1868年に作られ72年に発表されたオペラ「アリババと40人の盗賊」の内、「闘牛士の目(Olhos matadores)」は、最初のブラジリアン・タンゴです。

また、シキーニャ・ゴンザガやピシンギーニャの父親アルフレド・ビアナ(Alfredo Viana)とも交流がありました。
後年、エルネスト・ナザレは、エンヒッキの功績を称え"Mesquitinga"という曲を作っています。

参考:Dicionario Clavo Albin da Musuca Popular Brasiliera
Uma Enciclopedia de Musicos Brasileiros



作品


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