作曲家列伝 

彼らの生んだショーロスタンダード







Pattapio Silva 

パタピオ・シルヴァ (1881-1907) 
リオデジャネイロ近郊のイタオカラ(Itaocara)生まれ。


神話であり伝説でもある夭折の天才フルート奏者



ジョアキム・カラ-ド(Joaquim Callado)、ヴィリアット・フィゲイラ・ダ・シルヴァ(Viriata Figueira da Silva)が、相次いで逝った1880年代以降、これに継ぐヴィルティオーゾとして、名を残しています。
その活躍は、幸運にも、レコード録音しており、今でもそれを聴くことが出来ます。

国立音楽学校(Instituto Nacinal de Musica)における、ジョアキム・カラッドの後任教授、デュッケ・エストラーダ・メイェール(Duque Estrada Meyer)の生徒で、卒業時には最優良生として金のメダルを授与され、何時かヨーロッパに渡航することを夢見ながら、演奏旅行先のフロリアノポリス(Florianoplolis サンタカタリナ州都)で、客死しました。

彼は、床屋の息子であり、その父は音楽家でもありました。
この「床屋音楽」(Musica de barbeiros)とは、床屋兼演奏家と言う、奴隷の職業の一種(主人に役に立つとアピールできる特技)であり、その為、幾つもの奴隷の床屋バンドがリオデジャネイロやバイヤには存在しました。
このフルート吹きの父親から手ほどきを受け、16歳で既にカタグアゼスの町のバンドに入りました。

その後、リオデジャネイロ州北部の様々な町のバンドに入りましたが、1901年、20歳の時、手に木製フルートとトースト(パン)を10枚持って、貨物列車に無賃乗車し、リオデジャネイロにやってきます。
昼はタイピスト、理容師として働き、夜は音楽学校で授業を受ける毎日でしたが、いつも、夢と空腹を抱えていたと書かれています。


学校では、自分独自の演奏方法と、スノッブな級友達の信奉するヨーロッパ流演奏との軋轢に苦しんでいました。
ある日、メイェール教授がこの若い生徒の訪問を受けたとき、新聞紙に包まれた木製で手作りのフルートを見て、笑いを堪え切れませんでしたが、彼の演奏を聞くや、彼に自宅での毎日の指導を申し出ました。

1902年になると、学校内の独奏会で絶賛を博し、他の都市での代役公演でも大好評でした。
ある公演の後、リオ・ブランコ男爵が、「何でも欲しいものを言ってごらん」と言うのに対し、「その男爵の帽子を頂きたい」と答えたそうです。

1903年には、もう一つの勲章が彼のものになります。
音楽学校主催のコンテストに、上流階級婦人会が、優勝者の為に、銀のフルートを贈呈しました。
パタピオは、再び優勝しました。
しかし、贈呈式前に、フルートが消えてしまう事件が起きました。
「エリートの為の大会で、貧乏な黒人が優勝してしまった」事実に、耐えられない者がいたようです。


卒業後、メイエール教授の推薦状を手に、パタピオはサンパウロに向かいました。
しかし、人種偏見の壁は厚く、州立学校の教授職も、結局失いました。
一方、彼のコンサートの大成功に終わり、この成功を以って、教授は彼の助手の席を申し出ましたが、逆にパタピオはこれを丁寧に断っています。


1905年にパタピオの才能を愛したメイェール教授が亡くなり、その後任は、名声と実力では、当然パタピオに譲られるべきだと思われますが、教授の死の数時間後には、同級生が、これに選ばれました。

1906年には、サンパウロで、公演、フルートの指導と作曲活動をしていましたが、この時期、アフォンソ・ペナ大統領の前で演奏をしています。

しかし、パタピオの夢は、この時代のすべての音楽家と同じく、ヨーロッパでの演奏と成功でした。


この夢を実現には、資金が必要と考え、パタピオは演奏旅行を計画しました。
1907年3月14日にサンパウロを発ち、南へ向かうと、
3月18日のパラナ州首都クリチバを皮切りに、各地で公演を続け、
4月12日にはサンタカタリナ州都フロリアノポリスに到着しました。

同月18日に最初の公演を行うことにし、プレスに発表されましたが、その後直ぐ、
パタピオのインフルエンザ罹病の為と、公演の延期が発表されました。
しかし、24日の深夜2時、故郷からは遠く離れた地で、彼は死にました。

参考資料:Almanaque do Choro (Andre Diniz)

Answer com(Alvaro Neder, Rovi)



作品

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