作曲家列伝 

彼らの生んだショーロスタンダード







Radames Gnattali






Radames Gnattali
ハダメス・ジニャッタリ
(1906-1988)






ブラジル・ポピュラーミュージック界の巨人、ハダメスの業績を簡単にまとめるのはほぼ不可能です。
持ち前のインテリジェンスや性格の複雑さの為か、ピシンギーニャやジャコー・ド・バンドリンと比べるとその事跡が一筋縄では行かないからです。
しかしながら、現代ブラジル・ポピュラー・ミュージック界への影響はこの二人に劣らぬか、それ以上ものもあります。
一方、彼自身はクラシック音楽家としての業績と自負もあり、話を更に複雑にしています。

どこに話の糸口を見つけるか悩みましたが、取りあえず、彼の故郷、ポルト・アレグレから話を始めます。


1896年、ハダメスの両親はイタリアからブラジルに移民し、ブラジル一番南の州リオグランデ・ド・スルの州都ポルト・アレグレに居を構えました。
父親のアレクサンドラ・ジニャタリ(Alessandro Gnattali)は、日雇い人夫をしながら生計を立てていましたが、
元来の音楽好きで、結局ピアノ、ファゴット、ベース演奏を経て、楽団指揮と、音楽家として生き始め、
また母親のアデリア(Adelia)も音楽好きで彼ら兄弟にピアノを教えました。

この夫婦は、最初の3人の子供にそれぞれ、Radames, Aida, Ernaiとヴェルディのオペラの主人公の名前を与えています。
貧乏ながらも、音楽がいつも流れている家庭が想像されます。

ハダメスは産まれた家(中心地区近くのフェルナンデス・ビエイラ通り Rua Fernandes Vieira)の近所のイタリア人学校に通っていましたが、結局、14歳で学業を放擲していましました。
理由は、彼自身の言に拠れば、「吃音の所為で、口答試験で零点を取ったから」と言うことです。

父親が心配して、「将来何になりたいか」と聞いたところ、「音楽家だ」と答え、
父親の勧めで、ポルトアレグレ音楽学校(今の国立リオグランデドスル音楽大学)ピアノ学科の5年次に入学し、ここに9年間在籍しました。
本人曰く「当時は、あの馬鹿げた入学試験が無かった」から入学できたとのこと。
ここで、ヨーロッパ・クラシックを学びました。


大学時代も、教授のフォンタイーニャ(Fontainha)に連れられ、リオデジャネイロでコンサートに参加していますが、最終的にリオに拠点を移したのは、1931年です。


フォンタイーニャ先生が、リオからリオデジャネイロ音楽学校の教授の口があると手紙をくれ、彼はポルトアレグレのすべてを投げ打ってリオに出てきました。
そこで、就職試験を4-5ヶ月待ったでしょうか、全然何も起きません。

ハダメスは、痺れを切らし、ポルトアレグレの政治家の紹介状を持って、当時のブラジルの大統領ジェツリオ・バーガス(Getulio Vagas)を訪ねました。
数日して、会っても良いとの電報を受け取り、再度、大統領官邸に出かけました。

大統領はまだ若造のハダメスに、「セニョールは何が望みなのか」と聞きます。
「この年末までに就職試験があるかどうかだけが知りたいのだ」と彼は返事をしました。
大統領が威厳を以って言うには、「試験は行われます。心配せずとも、この私が約束します」とのことでした。

結局、それは政治家の約束、何も起こらなかったのは、古今東西、言うまでもありません。


その頃が一番悲惨な頃でしたが、もっとも自分だけでなく、すべての音楽家にとって同じような状況でした、と彼自身が語っています。


1930年前後、彼はアルバイトで、ラジオ局の音楽番組でのピアニストの職を見つけます。
最初はラジオ・クラブ(Radio Club)、次がカジュチ(Radio Cajuti),そして、彼の名前を確立したラジオ・ナショナル(国立ラジオ局 Radio Nacional)です。

後年、ハダメスは、「ポピュラー音楽は好きで、これが人生にもたらしてくれた事に感謝している。しかし、最初はクラシックの音楽家になりたかった」と言っています。
ポルトアレグレ時代にも、家の近くの映画館やバーでポピュラー音楽のピアノ弾きで金を稼いでいたこともありますが、結局このラジオ・ナショナルでの仕事が彼の人生の重要な位置を占めることになりました。

ラジオ・ナショナルでは約30年ほど働き、ラジオの時代とも合いまち、ここでのポピュラー音楽番組「百万個のメロディー(Um Milhao de Musicas)」の影響力は計り知れないものがありました。

番組は毎週水曜日に放送され、ハダメスはピアニストではなく編曲者として、毎週9曲の編曲をし続けました。
何しろ、広告主に気兼ねすることが無い国立のラジオ局で、予算も豊富に有ったようで、思い切り、好きなように編曲したようです。


放浪画家、山下清の「それを兵隊の位で言うと?」では無いですが、よく分からない物や事柄を何か他の物に置き換えて説明しようとすると、大概見当はずれに終わってしまうのは、よく知っています。
しかし、あえて無理をして、「百万個のメロディーとハダメス」は「日本では何と例えるか?」と考えてみました。
思いついたのは、日曜日の朝の番組の「題名の無い音楽会と黛敏郎」です。
しかし、やはり、見当はずれです。(ポピュラー音楽とその影響力の点で)
これに服部良一を足して、それから、もう少し何か(それが何かうまく言えないし、それが肝心のような気がします)を加えた感じになりましょうか。



ハダメスのコメント集


エルネスト・ナザレ
Ernesto Nazareth

エルネストが、リオブランコ通りとセッチデセテンブロ通りの交差点にあったオデオン劇場で弾いていたのは、私が25-26歳だった頃で、そこで彼を知りました。
ある日、劇場前を通り過ぎるとピアノの音が聞こえ、それは彼自身が弾いている音でした。
今のピアニスト達は、彼の曲を弾くべき形で演奏していないと思う。それは、多分、エルネストを「ただの町場のピアノ弾き」とでも思っているからでしょう。
エルネストはスタッカートを全然使わず、まるでショパンのようにペダルを使って弾いていました。
本当に良いピアニストでした。


ガロート
Garoto (Anibal Augusto Sardinha)

私はショーロを吹こうとフルートを買っていました。
偶々、サンパウロ400年記念曲で得たお金で、ガロートは私の牧場隣の敷地を買い、まだ家が完成する前から引っ越してきました。
夜になると彼がギター、私がフルートで合奏をやっていましたが、私は、「世界で一番優れたギター演奏家」の、最悪のフルート伴奏家でした。


ピシンギーニャ
Pixinguinha (Alfredo da Rocha Viana Filho)

ピシンギーニャを知ったのは,30年代、彼がチラデンテス広場のダンスホール、エルドラドで演奏しているときでした。
当時良くあった、小さなジャズバンドで、時々ショーロも演奏していて、そこで私も学んだものです。
その後、私達はジアボス・ド・セウ楽団(Orquestra Os Diabos do Ceu)で一緒になりました。
彼はサンバの編曲もやっていて、それに彼のフルート演奏も作曲もとても優れていました。
当時の彼は楽団の為、少し古臭いスタイルで編曲し、私はピアニストとしてそれらの曲を弾いていました。
私がロマンティックな曲を編曲すると、今度は彼がフルート、ホメウ・ジピスマン(Romeu Ghypsman)がギターを演奏してくれました。
その後、ピシンギーニャと随分親しくなりました。彼は私にとって、父親のように特別な人間でした。
そして、作曲家としても、フルート吹きとしても、最高だったのは言うまでも有りません。


カメラッタ・カリオカ
Camerata Carioca

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ある日、ジョエル・ナシメントが家を訪ねてきて、「ヘトラトス」(Retoratos)をオーケストラ曲からバンド曲へ編曲してくれと頼んできた。
自分では、うまく行かないだろうと思っていたが、結局良く出来ました。
カメラッタと一緒に働き始めたとき、彼らはよくやると思いました。
つまり、「学びたくて、そして演奏したい奴等は、自然と、良く学んで良く演奏できる」と言うことです。


注:78年(79年?)結成のカメラッタ・カリオカのオリジナル・メンバーは、Joel Nascimento(Bandolim), Raphael Rabelo(Violao 7 cordas), Luciana Rabello (Cavaqinho),Mauricio Carrilho (Violao), Celsinho Silva (Pandeiro)で、上記「へトラトス」の演奏の為に編成されていましたが、同年のジャコーへの追悼プロジェクト演奏にあたり、ヘルミニオ・ベロ・デ・カルバーリョ(Herminio Bello de Carvalho)が、このグループの名をカメラッタ・カリオカと名づけました。

グループにはもう一つの編成があり(82年)、Joao Pedro Borges (violao de sete cordas), Henrique Cazes (cavaquinho), Beto Cazes (pandeiros),Edgar Goncalves (sopros) で、LPのVivaldi & Pixinguinhaの録音の為に編成されました。(参考:br-instrumental.blogspot)


トム・ジョビン
Tom Jobim (Antonio Carlos Jobim)

私がコパカーナに住んでいた頃、トムはよく訪ねてきた。
彼は落ち込んでいて、私に助言を求めてきた。
私はトムに言った
「誰も君に教えるなんて出来ない。私にも同じようなことがあったよ。
結局、自分の中にあって、外に出る準備が出来たものを出していくしかないと思う。
何かに捕らえられていても何も起こらない。
君は自分を導いてくれる誰かを探す必要なんか無い。
何故なら、誰も君を導けないからだ。
僕は、君はピアノやオーケストラ向けの良い曲を書くと信じている。
そして、その時は、君が指揮して、私がピアノを演奏するから」と。
で、結局そうなりました。


トム曰く。

あれはラジオ・ナショナルだったと思う。私はあの無能な奴等への恐怖で死にそうだった。
ラジオ労働組合の人間が、ストップウオッチを片手に、「練習はそこまで」と叫ぶんだ。
そこで、ハダメスは、この猛獣達との間に入って助けてくれたよ。




以上。やはりハダメスの事跡は一言ではまとめ切れません。

ハダメスはリオデジャネイロで亡くなりました。82歳でした。


参考:Radames Gnattali公式サイト、ACARI Artestas

貝塚正美



作品

Radames CD

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