作曲家列伝 

彼らの生んだショーロスタンダード







左Tute, 右Pixinguinha


チュチ(Tute)
本名 Arthur de Souza Nascimento
1886 リオデジャネイロ生〜1951

黄金法



ブラジルの奴隷制を見てみると、1850年に奴隷貿易が廃止され、1888年に制度そのものが黄金法という法律により禁止されています。
つまり、19世紀後半期から活躍した黒人ショラォンたち(ジョアキン・カラッド、ビリアット・ダ・シルバ、アナクレット・デ・メデイロス等)は奴隷制時代を生き、これらの次世代であるチュチは、ピシンギーニャ兄弟やパタピオ・シルバたちと共に、父祖の直接の記憶を持っていたことになります。
その音楽的影響については、彼たちの生きてきた軌跡を見るときに、どうしても気になる部分ですが、その考察はまた別の機会に。

チュチ(Tute)は、シナ(China ピシンギーニャの兄、本名Otávio Littleton da Rocha Vianna)と並び、ジノ・7・コルダスからハファエル・ハベーロへつながる7弦ギターの祖です。

Dino 7 Cordas

ジノは、「チュチの7弦ギターの演奏はとても素敵で、自分もやりたかったけど、物真似だと言われるのが嫌で、彼が亡くなるまで7弦ギターを手にしなかった」と言っています。

19世紀にロシアで生まれた7弦ギターがどのようにしてブラジルのショーロの世界に入ってきたかについては、ショラォンたちが集ったTia Ciata(チア・シアッタ)の家へロシア系ジプシーが持ち込んだ、チュチがフランスから輸入した、チュチがリオのギター職人に注文した等々、色々な噂があるようですが、とにかく、これを定着させた功績はチュチとシナにあるのは間違いありません。

チュチは、1900年代の初め、アナクレット・デ・メデイロスの消防団楽団(Corpo de Bombeiros)のパーカショニストとして音楽活動を始めました。

シキーニャ・ゴンザーガのバンドでは既に7弦ギターを弾いており、その他、ジェンチ・ボア(Gente Boa)、ベーリャ・グァルダ(Grupo da Velha Guarda)、シンコ・コンパニェイロス(Os Cinco Companheiros)、コパカバーナ・オーケストラ(Orquestra Copacabana)、リオブランコ劇場オーケストラ(Orquestra do Teatro Rio Branco)等に参加しています。

Luperce Miranda

29年から45年の間、ヘシフェ(Recife)生まれのバンドリン奏者ルペルセ・ミランダ(Luperce Miranda)と何回も演奏を共にしています。
チュチは、ソリストを支え、即興に対応できる手堅い演奏相手だったようです。
この組み合わせで、アヒ・バホーゾ(Ary Barroso)、カルメン・ミランダ、ルイス・バルボーザ(Luiz Barboza)の録音に参加しています。

またチュチは、1912~3年頃、まだ15才だったピシンギーニャを、リオブランコ劇場オーケストラの指揮者パウリーノ・サクラメント(Paulino Sacramento)に紹介し、そのデビューを助けています。


チュチやシナは、それまで使っていたチェロの弦をスティール弦に替え、ピックで弾いています。これはアンプの無かった当時、チューバやトロンボーン等の低音部の代わりを務める7弦ギターにも、サーカスの楽隊のような大音量が求められていたからです。

チュチは低音部を和音に沿って弾いていたようで、その後のジノによって開発された奏法に比べれば単純です。それでもやはり、ジノにとって、チュチは7弦ギタリストの偉大な手本でした。

参考:Portal Luis Nassif,
Musicos do Brasil;Uma Enciclopedia Instrmental,
Antonio de Padua Gomide(Luthier)

貝塚正美

チュチの曲

Sonhos de Nair
Pra frente e que se anda
Alma e coracao



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