片山叔美のエッセイ

私のサウダージ、アデミルジ・フォンセーカ




<文:片山叔美>




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(8) 真実を知りたいから ~私のタイムスリップ願望




大正6年。西暦1917年。
「考える人」の彫刻家、オーギュスト・ロダン(77)は臨終の床にあった内縁の妻、ローズ(73)とついに正式に結婚。何日かして妻は逝き、ロダン自身もその9か月後に死去した。最期の言葉は「パリに残した若い方の妻(カミーユ)に逢いたい」……あらま、ほんとに言っちゃったの?そんなこと。

同年、ブラジルでは、ゼキーニャ・ジ・アブレウという作曲家がサンパウロのとあるダンスパーティで、後に世界的にヒットすることとなるショーロの名曲「チコ・チコ・ノ・フバ」を発表する。もっとも最初のレコーディングはそのだいぶ後、1931年とのこと(録音もそう簡単にできる時代じゃなかっただろう)。

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昭和17年。西暦1942年。
日本が真珠湾攻撃を仕掛け、太平洋戦争が勃発した翌年。

ブラジルでは、フルーティストのベネジット・ラセルダのバンドに、バイヨン王ルイース・ゴンザーガ(*1)が加わり、アデミルジの歌う「チコ・チコ・ノ・フバ」 が録音された。
ラセルダが、アデミルジの歌唱力に期待をかけ、当時の音楽業界でプロデューサー的な力を発揮していたジョアン・ジ・バーロのもとへ連れて行ったのが発端。

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ジョアン・ジ・バーロはギタリストだが、カルメン・ミランダを見出した名プロデューサーでもあった。カルメンといえば頭にフルーツハットをのせて歌い踊る姿で知られているが、それもハリウッドでの話。ブラジルではそんな恰好をしなくとも、当時まぎれもなく最高の歌姫だった。

ラセルダの方も、カルメンがブラジルで最も輝いていた時期(1930年代)に、彼女との録音を行っている。
カルメンはサンバやマルシャで有名だが、そのバックで演奏するのがラセルダのバンドなら、私の耳にはショーロの音に聞こえてしまう。
だって彼らはショラゥン(*2)だから。

アデミルジは、その大スター、カルメン・ミランダが(1940年くらいから活動の場をハリウッドに移して)不在のブラジルの音楽業界に、パッと現れた稀有な存在。本来インストであるショーロの中でも、とりわけ超高速な器楽的旋律の曲を、可愛らしい小鳥のように歌い、お茶の間のアイドルとして大衆に受け容れられた。
本当に人々を心から楽しませた歌手だったのだ。

翌1943年には、エルネスト・ナザレの名曲「アパニェイ・チ・カヴァキーニョ」も録音し、「ショーロの女王(ライーニャ・ド・ショリーニョ)」と呼ばれるようになった。

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おや?この曲、ナザレのオリジナルとしてはポルカだ。
でもアデミルジはラセルダのバンドでショーロとして歌った。
まあ、一般大衆はそんなこと気にしない。ざっくりとこういうのをショーロって呼ぶわけだな。
私と同じだ。(笑)

私はその時代に生きてもいなければ、ブラジルのことを大して知っているわけでもない。(ちょっぴり長く現代のリオデジャネイロに滞在したというだけ。)

アデミルジがどんなにアーティストとして成功した人なのか、何かの資料で読んではいたけれど、実はあまり分かっていなかった。
何しろ、私ごときが容易に電話番号を入手して、本人に直接、電話できちゃったくらいだもの。
でも、実際に会ってみた彼女は、まず、見た目が一般人とは違っていた(まさに芸能人オーラが出てる!(2) 始まり ~ちょっと怖い昔の事件 参照)

コパカバーナの商店街辺りを歩いていると、向こうから来る人に声を掛けられる。

「あなた、アデミルジじゃありませんか!?この前もテレビに出てましたね!」
「そうよ、私はアデミルジ」
「ああ、あなたのファンです。会えるなんてほんとに嬉しいわ。どうしていつもそんなに若いのですか!?」

こんな感じで主に70代位の方々に、50メートル歩くごとに呼び止められるのだ。

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また、ペトロポリス(リオの山のほう)へ小旅行に行ったときは、小学生の社会科見学の一行と遭遇。
先生らしき若い女性が声高く、
「あっ!!あなたは、ショーロの女王、アデミルジではありませんか!? みんな、こっちへ来なさーい!こちらに、ショーロの女王、アデミルジがいらっしゃってまーす!!」

たしか博物館でのことだったと思うが、たちまち騒がしくなり、子供たちに取り囲まれた。
きっと音楽か社会の授業でアデミルジについて習っていたのだろう。実際の本人と対面して、大興奮の様子だった。

アデミルジは自分の経歴を鼻にかけるような人ではなかった。
だから彼女の昔の成功話みたいなことは全て人が私に話してくれたことばかりだ。

アデミルジの弟の奥さんは
「昔、アデミルジにセントロ(旧市街)に買い物へ一緒に行きましょう、って誘ったのよ。そしたら彼女、何て答えたと思う?

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街を歩いたりしたら、ファンに取り囲まれて買い物どころじゃなくなってしまう、だから残念だけど行けないのよ、って。親戚だからそんな風に考えもしなかったけど、確かにそうに違いなかったわ!」
と言って大笑いした。

私は一昔前のリオに行ってみたい。
録音として残せなかった音楽を聴きに行きたいのだ。
当時の流行歌を歌う歌手のバックはショラゥンが占めていたと思うし、ならば、ショーの途中で歌手を休ませたりメリハリをつけるためにショーロを楽器だけで普通に演奏していたに違いない。
もしもつまらない歌手が歌ったら、バックのショラゥンのイライラは絶頂となり、歌手が袖に引っ込むや、本職のショーロ演奏で観客を魅了してしまうことだってあったかも知れない。

ああ、あの偉大な作曲家、ピシンギーニャの活躍もリアルタイムに感じてみたい。

ブラジル人ならきっと誰でも知っているあの曲。
某テレビ番組で、ここ100年のブラジル音楽史に残る名曲は?という質問に、音楽業界関係者の回答第1位になったあの曲。
ブラジルのあるフェスタで歌ったら、1フレーズ目で既に観客席から歌声が聞こえ、2フレーズ目にはもはや私がマイクを持つ意味が無いほど、会場全員の合唱になってしまったあの曲。
ピシンギーニャが駆け出しの1917年頃に作曲し、ショーロの特徴である3部形式をとらなかったため、お偉い方々にショーロと呼んでもらえず、いったんはポルカだのジャズもどきだのと自ら分類したものの、音楽業界で出世を果たした後に、改めてショーロに分類し直したという…

その名曲は 「カリニョーゾ」!

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もとはといえばこれも器楽曲だった。
友人にイベントで歌いたいからと頼まれたジョアン・ジ・バーロが急遽、ピシンギーニャの吹くメロディーを聞きに行って歌詞を付けたらしい。お礼にイタリア製のネクタイをもらったそうだけど。その後、当時有名になりつつあったサンバ歌手のオルランド・シルヴァが歌って大ヒットしたのが1937年。
曲が出来てからブレイクするまで随分時間がかったものである。
こんな経緯も是非、近くで目撃してみたい。

まだまだ私にとって見逃せないシーンはある。
カヴァキーニョ奏者のヴァルジール・アゼヴェードが作曲した「ブラジレイリーニョ」の大ブレイク!
(インストルメンタルで大ヒットってどういうことなんだろう。)

その「ブラジレイリーニョ」のヒットに乗じたのがアデミルジだ。
こんなにも軽快なインストの曲を可愛らしく歌いこなしてしまった。

もしも全盛期の彼女の活躍を追いかけようとしても、一般市民の私には、まず知り合うことすら叶わないだろう。
それはちょっと悲しいけれど、やっぱりその頃のリオデジャネイロに行ってみたくてたまらない。

一般大衆が「ショーロ」と呼ぶ音楽が、どんな風にその時代の人々に愛されていたのか…アデミルジやショラゥン達の華々しい活躍を生でリアルタイムに感じることが出来たら!

100年近くの時を遡るタイムスリップが、私の切なる夢なのだ。




It's a show time, Folks !

Ademilde Fonseca e Waldir Azevedo no Sambão
(↑ 古いビデオです。)



(*1)バイヨン王 ルイース・ゴンザーガ(1912-1989):ブラジル北東部の音楽バイヨンを確立した人
(*2)ショラゥン:ショーロを演奏するミュージシャン


2013 07 05