片山叔美のエッセイ

「ブラジル浪漫暦話」

<文:片山叔美>




(4)「サンパウロ、7月9日」




今回は、7月9日について。
ブラジル全土ではなく、サンパウロだけの休日です。

1997年からこの休日は始まりました。サンパウロ市民にずっとこの先も思いだしてほしいことが過去7月9日にあったから、、、ということだそうです。

その過去とは1932年、日本では5・15事件の年です。この年の7月9日サンパウロで「Revolução Constitucionalista」が発生しました。Revolução は「革命」、Consitucionalistaは「護憲派の」という意味です。要するに7月9日は革命記念日なのです。日本では「護憲革命」と訳されています。
いったいどんな事件だったのでしょうか?

この事件の話に入る前に先ず時計の針を1822年まで戻します。

ブラジル皇帝ペドロ1世

この年、ポルトガルの王太子であったドン・ペドロが「独立か死か」と叫んで母国から独立し、ブラジル皇帝ペドロ1世になりました。
1831年、ペドロ1世は幼い息子(後のペドロ2世)に後を託してポルトガルへ帰国します。しかしこの帝政は1888年に奴隷廃止法に署名したことで奴隷解放に反対する大地主(帝政の主な支持者)からも見放され、翌年、共和派のクーデターにより終焉を迎えました。

その後、共和制となったものの、1894年からはコーヒーで栄えたサンパウロ州と酪農・畜産で富を得たミナスジェライス州との間で大統領を任期ごとに交互に選出するという政治がしばらく続きました。両州の特産物にちなんで「カフェ・コン・レイテ」(ミルクコーヒー)と呼ばれた時代です。

ところが1930年、本来ミナスジェライス州の順番だった年に、前大統領に後継者として指名され且つ選挙に勝利したのはサンパウロ州の候補者。これに対し、ミナスジェライスは反サンパウロの諸州と組んでクーデターを仕掛け、リオ・グランジ・ド・スウ州の知事ジェットゥリオ・ヴァルガスを臨時政府代表として選びました。

ジェットゥリオ・ヴァルガス

このヴァルガス新政権は中央集権的、独裁的な手法で州統治を行い、今度はサンパウロ州内で反ヴァルガス運動が始まります。1932年5月23日に4人の学生運動家がヴァルガス政権支持者により暗殺される事件が発生しました。これが導火線となって「サンパウロ出身の大統領就任妨害への抗議」と「新憲法制定の要求」などを掲げ、主に志願兵からなる民間軍が反乱(護憲革命)を起こします。
ヴァルガスの正規軍に対するサンパウロ民間兵士の抵抗は3ヶ月ほど続きました。

結局、護憲革命は失敗に終わりましたが、ヴァルガス政権による新憲法制定に結びつき、ブラジルの政治を大きく変える誘因となったと後に再評価され、この反乱の勃発した「7月9日」が1997年サンパウロ州により祝日に制定されたのです。

ブラジルは全土一色ではなく、州ごとに独自の色の歴史や文化を持ち、それを誇りにしているのですね。


おまけ

サンパウロのオベリスク

(1)サンパウロ市には、4人の若者の命を奪った事件を銘記すべく名付けられた5月23日通り(Avenida 23 de maio)、革命の日を記念した7月9日通り(Avenida 9 de julio)、革命の英雄の名前が刻まれた70メートル以上ある記念塔(イビラプエラ公園内)など、「護憲革命」に関連した場所がいくつかあります。

MMDC絵葉書

(2)この4人の若者の頭文字をとって「護憲革命」を「MMDC革命」と呼ぶこともあるそうです。

(3)1826年にペドロ1世の娘マリア・ダ・グローリアはポルトガル王女(当時7歳)となりました。しかし婚約者&摂政として迎えたミゲル(ペドロ1世の弟)が裏切り、自身がポルトガル王に即位(1828~1834年の間)、しかしその後亡命。マリア・ダ・グローリアは再度ポルトガル王女に。ペドロ1世一家のドロドロ…私的にはとても興味深い!

(4)結局、ヴァルガスは護憲革命後に制定した新憲法(1934年)を自分でひっくり返し、大統領職を1945年まで続けました。1951年に正式な選挙で大統領へ返り咲くのですが、軍の離反などにより1954年ピストル自殺をとげました。


写真はウィキペディア Domínio Públicoより

2014 07 08