ヴィリアット・ダ・シルヴァ

ヴィリアット・ダ・シルヴァ
Viriato Figueira da Silva
1851 Macaé, RJ – 1883  Rio de Janeiro, RJ

ヴィリアット・ダ・シルヴァはフルーティストのベネジット・ラセルダと同じ町、リオデジャネイロ州北部の町マカエで生まれました。

マカエは1600年代にイエズス会のインディオ布教ルートの中継点として始まり、その後は砂糖黍やコーヒー等の農作物栽培で普通の田舎町であったのが、1970年代になって海の沖合いで石油が発見されて職を求める人の群れがブラジル中から集まり、大半は希望した職も見つからずそのまま住みついてファベーラ(貧民窟)を形成するようになったと、資料に記されています。

ヴィリアットの生活の軌跡は多く残っておりません。マカエの町で奴隷の子供として生まれ、いつの間にかリオデジャネイロに現れました。リオではアナ・ネリ通り(Rua Ana Neri, Rio de Janeiro)に住んでいたらしいですがいつ頃なのかどの位なのかは分かりませんでした。

リオの帝立音楽学院で、エンリッキ・デ・メスキータに師事しジョアキン・カラッド(Joaquin Callado)とは同窓の友人となりました。

彼の功績は作曲、フルート奏者、サックス奏者の3つに分けられます。

サックス奏者としてはブラジルの最初のソロのサックス奏者です。エンリッケ・デ・メスキータが率いるフェニックス劇場専属オーケストラ(Teatro Phoenix Dramática)のメンバーとしてサンパウロ公演にも随行しています。

フルート奏者としてはカラッドと並ぶ伝説的なヴィルティオーゾです。ペドロ・アシス(1880-1934 フルーティスト、メイェールの弟子、パタピオの同僚) によれば「ベルギー人で高名なフルーティスト、アンドレ・レイシェルの跡を追い、ブラジル北部の州の州都へのツアーを成功させた」とのことです。今では、パタピオ・シルヴァピシンギーニャベネジット・ラセルダアルタミロ・カリーリョ等の出現によりフルーティストとして語られることは少なくなりましたが、その腕前はリオ音楽学院の教授の席をデュッケ・メイェール(Duque Estrada Meyer)と競う程でした。(時の皇帝ドン・ペドロ二世のお眼鏡に適わずメイェールに席を譲っています)

作曲家としてはポルカ9曲が彼の著作として残っています。ヨーロッパ出自のポルカをブラジル・ポルカとして確立させた功労者の一人で、So Para Moerは今でも演奏会でも聞く機会があります。

盟友ジョアキン・カラッドの3年後に亡くなり、サンフランシスコ・シャヴィエール墓地にカラッドと共に眠っています。
この二人はショーロ創世期の巨人でありショーロの父とも呼ばれています。

参考:Casa do Choro
Insutituto Cultral Cravo Albin: Musica Popular Brasileira
ショーロはこうして誕生した

ショローンとその時代