イリネウ・デ・アルメイダ
(イリネウ・バチーナ)
Irineu Gomes de Almeida (Irineu Batina)
1873 Rio de Janeiro-1916 Rio de Janeiro
ホーダではいつも神父が着るような黒いコートを着ていたので、付いたあだ名がイリネウ・バチーナ「神父服のイリネウ」、主メロディに伴走するメロディ演奏(対位法)のマスターであり、お気に入りの楽器はオフィクレイドでした。
(オフィクレイドは今ではあまり見かけませんが、マウスがトロンボーン、キーはサキソフォーンに似て、1817年にフランス人”Jean Hilaire Asté”により発明され1920年頃までは使われていました。先行する楽器セルパン”Serpin”に代わるものでしたが、その後チューバにその役目を譲りました)
1873年生まれ。リオの何処で生まれたとか、どんな家族であったとか、またどうやって楽器演奏や音楽理論を修得したのかが分かる資料は手に入りませんでした。
アナクレット・デ・メデイロスが1896年に結成した消防警察楽団”Banda do Corpo de Bombeiros”のオリジナルメンバー。この楽団ではチューバを吹き且つ副指揮者でした。
オペラ劇場のオーケストラではトロンボーンを吹いています。
有名な楽器店カヴァキーニョ・デ・オウロでのホーダの常連で、いつもいたのはキンカ・デ・ラランジェイラス、ヴィラ=ロボス、ルイス・デ・ソウザ等々。
消防警察楽団ではトランペットのアルベルト・ピメンタル、チューバのリカ、クラリネットのジョアン・ドス・サントス、フルートのエンリッケ・ドウラード、イリネウ・ピアニーニョ、カヴァキーニョのガルジーノ・バレット、マリオ・アルヴァレス、ギターのネコとエンリッケ・ローザがホーダ仲間でした。
(皆、アニマルの「オ・ショーロ」の中で称賛されている音楽家達ばかりです)
音楽好きのピシンギーニャの父親”Alfredo da Rocha Viana”の経営する下宿屋ペンション・ヴィアンナへも足繁く通い、息子のピシンギーニャにはチューバと作曲法を教えたうえ、ミュージシャンの間を連れて回りました。
もっともピシンギーニャの先生だったというこの逸話にイリネウ自身は「ピシンギーニャは一人で学んだんだ」と言っていますが。
ピシンギーニャの最初のコンジュントはショーロ・カリオカ(1911-1913)です。編成はオフィクレイドのイリネウ、ギターと歌のシナ(オクタヴィオ・ヴィアンナ)、ギターのレオ・ヴィアンナ、カヴァキーニョはルル・カヴァキーニョまたはエンリッケ・ヴィアンナの2説あります。
後者だとピシンギーニャ兄弟+イリネウとなります。
1911年にショーロ・カリオカが録音した内の4曲がイリネウ作曲です。Nininha, Dainéia, Salve, São João debaixo (カーザ・ファウリャベール録音、ファボリッテ・レコード販売)
1913年にも録音(フェニックス録音)していますが、こちらは別の編成でイリネウは参加していません。
(ショーロ・カリオカの結成年、イリネウの曲の記述にCasa do ChoroとInstituto Moreira Sallesに若干の食い違いがありましたがIMSに従いました)
アニマルによるとイリネウは太っていて中背でそれに人柄が滅茶苦茶よくって、更にカーニヴァルでアメノ・レゼダと競い合ったシダーデ・ノーヴァのランショ・カルナヴァレスコ「フィーリャス・ダス・ジャルジネイラス」(ピシンギーニャもメンバー)のハーモニー担当責任者だったとのことです。
1914年8月22日ペンション・ヴィアンナで亡くなり(死亡届はピシンギーニャの兄弟のシナによる)、フランシスコ・シャヴィエール墓地に葬られました。
参考資料:Casa do Choro – Irineu de Almeida
Dicionario Cravo Albin – Irineu de Almeida
Trombone Atrevido
オ・ショーロ(ショーロはこうして誕生した)
Choro Carioca – Pixiguinha 120 anos / Instituto Moreira Salles
Irineu de Almeida – Pixinguinha 120 anos / Instituto Moreira Salles
Pai de Pixingiunha – Pixinguinha 120 anos / Instituto Morares Salles
Almanaque do Choro(André Diniz / Jorge Zahar Editor. Rio de Janeiro, 2003)
2019 Sep.16