ルイス・アメリカーノ
Luís Americano do Rego
27/2/1900 Aracaju, SE – 29/3/1960 Rio de Janeiro, RJ
ルイス・アメリカーノはセルジッペ州の首都アラカジュで生れていますが、余りノルデスチ(ブラジル東北地方)出身である感じがしないのはジャズ寄りの音楽経歴の印象のせいでしょうか。
マエストロ・フォンフォンにせよ当時流行っていたのはジャズバンド(ジャズをやっていなくともジャズバンドと名乗る例も多かったらしい)らしいのですから特段おかしなことでもないのでしょうけれど。
アニマル著の「オ・ショーロ」でも数多くの「ジャズバンド」が登場します。
ピシンギーニャのオイトバツタスもパリ公演(1922年)でもジャズバンドとして紹介された記事を何処かで読んだ記憶が有ります。(それが何処か見つかりません)
幼年時に地元の楽団のバンドマスターだった父親よりクラリネットを習い、アラカジュで音楽隊で兵役に付きそこでアルト・サックスも習得しました。
1921年にリオデジャネイロへの転勤により、首都を知り、翌年軍隊を去りました。
リオでの除隊は独立する為なのか兵役満了だったのかは分かりませんが、直ぐにシモン・ボウチマン(Simon Bountman)やロメウ・シルヴァ(Romeu Silva)等の楽団でナイトクラブやダンスホールで演奏を始めました。
20年台のラジオ創世期の局の一つ、ラジオ・ソシエダージ(Radio Sociedade)にソリスト、あるいは作曲家として参加した一人です。
その後28年から3年間アルゼンチンに住み、帰国後リオデジャネイロのマイリンキ・ヴェイガス・オーケストラ(Mayrink Veiga’s Orchestra)に参加し、次にアメリカン・ジャズ・オーケストラ(American Jazz Orchestra)を創設しビクターレコードのレコード録音を残しています。
32年になるとピシンギーニャ、ドンガ、ジョン・ド・バイアーナが作ったバンド、ヴェーリャ・ガルダ(Velha Guarda)に呼ばれています。
この頃、本人は覚えていないでしょうがジャコー・ド・バンドリンが「ルイスを見た」いきさつを語っています。
36年にはベニーグッドマン (クラリネット), ジーン・クルッパ (ドラム) 、テディ・ウィルソン (ピアノ)の向こうを張ってラダメス・ニャタリ(ピアノ)、ルシアーノ・ペローネ(ドラム)とでトリオ・カリオッカ(Trio Carioca)を組んでアメリカンジャズを演奏しています。
40年ポーランド系ロンドン生まれでニューヨーク・シティ・オーケストラ他の創立者であり、著名な指揮者であるレオポルド・ストコフスキー(Leopold Stokowski)による、リオーウルグアイ航路上でのレコード録音イベントに、ピシンギーニャの推薦で招待されました。彼の演奏は”Tocando Pra Você”に残っています。
スタジオミュージシャンとしてはカルメン・ミランダ、フランシスコ・アルヴェス、オルランド・シルヴァのバックを務めています。
代表曲は”E do que ha?”。他にも約60曲程、残してくれました。
名前の綴りが”Luís Americano”か”Luiz Americano”なのか? 両方資料にありました。昔の話ですから。
2021 Jul.31 redacao
参考:Choro Musica Blog Spot Luís Americano
Cravo Albin Luiz Americano
Casa do Choro Luís Americano
ショーロはこうして誕生した(オ・ショーロ)